日南市
日南市は宮崎県南部に位置しています。日向灘に面する海岸線は、日南海岸国定公園に指定されるリアス式海岸です。温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、山の幸と海の幸が美味しい地域です。産出される飫肥杉は弾力性に優れており、造船材や建築材として重宝されました。
概要
- 面積
- 536.11km2
- 人口
- 49,874人(2021年11月1日)
- 市の木
- おびすぎ
- 市の花
- つわぶき
- 市の鳥
- かわせみ
- 地図
特集
九州の小京都・伊東氏飫肥藩
伊東氏が280年藩主を務めた飫肥藩は小さな藩ではありましたが、油津港を拠点として飫肥杉の交易で繁栄して九州の小京都と呼ばれるほど発展しました。
歴史
日南市は海幸彦と山幸彦の神話が残る土地です。平安時代に荘園が造られ日下部氏や土持氏が荘園を管理しました。南北朝時代に伊東氏が下向して勢力を広げ、島津氏と支配を巡り抗争が続きました。豊臣秀吉の九州征伐から伊東氏が支配するようになり明治時代を迎えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
鵜戸神宮
本殿に鎮座する岩窟は豊玉姫が鸕鶿草葺不合尊を生むための産屋であり、崇神天皇が鸕鶿草葺不合尊を主祭神として所縁ある6神を祀り六所権現として創祀しました。
潮嶽神社
彦火火出見尊(山幸彦)に敗れた火闌降命(海幸彦)は、磐船で潮嶽に流れ着いたため、潮嶽神社に日本で唯一祀られています。
古墳時代、飛鳥時代
日南市では南九州特有の横穴式石室を有する古墳が残されています。古式古墳の大塚古墳は火闌降命が葬られていると言われ、火闌降命の子孫が南九州に居住した隼人の人たちと言われます。
南郷村古墳
潟上川に面する丘陵上に分布している円墳1基と箱式石棺3基です。三本松古墳と名付けられる1号墳は直径20メートルほどの墳丘で石室の石材が一部露出しています。
東郷村古墳
日南海岸を望む丘陵上に位置する古墳で、県南部の古墳に特徴的な自然地形を利用した円墳です。
細田村古墳
大堂津港から西に入り込んだ水田地帯に位置する小丘陵上にある古墳時代中期に築造された古墳です。
狐塚古墳
古墳時代終末期の日本の最南端に位置する古墳で、須恵器や勾玉、切子玉などが出土しています。
奈良時代、平安時代
延暦5年(786年)に僧侶の光喜坊快久が桓武天皇の勅命により鵜戸神宮に鵜戸山仁王護国寺を創建しました。これにより鵜戸山は修験道の一大道場として西の高野と呼ばれる聖地となりました。平安時代前期には宮崎郡飫肥郷の名前が記録に残され、藤原氏の荘園として日向八院の一つ飫肥院がありました。平安時代後期には島津荘が成立して、飫肥は奈良の興福寺一乗院が荘園領主となりました。
鎌倉時代、南北朝時代
日向伊東氏の祖である工藤祐経は、文治元年(1185年)に平家討伐のために源範頼とともに九州に出兵して、源頼朝から寵愛を受けるようになり建久元年(1190年)に日向国の地頭に任ぜられましたが、工藤祐経は建久4年(1193年)に富士の裾野で曽我兄弟に討たれ、子の祐時が家督を継いで伊東氏を名乗るようになりました。
土持氏の台頭
鎌倉時代の日向国は、宇佐神宮と関係が強い土持氏が豪族の日下部氏と婚姻関係を強めて台頭しました。鎌倉時代が崩壊して宮方(南朝)と武家方(北朝)が争うようになると、土持氏は武家方に属して飫肥城を築いて拠点を確保しつつ、土持頼宣が宮方が籠城する北郷石崎城(郷之原城)を激戦の末に攻め落としました。
室町時代、安土桃山時代
伊東祐持は、建武2年(1335年)に足利尊氏より日向国都於郡に所領を与えられ都於郡に城を築いて移り住みました。暦応元年(1338年)の島津貞久から氏久、元久と島津氏が日向守護に任ぜられると応永4年(1397年)の戦いを皮切りに島津氏と伊東氏の争いが表面化しました。天文18年(1549年)には飫肥城主島津忠広らが伊東氏を奇襲して守将伊東治部少輔らを討ち取り、島津軍は伊東軍の兵を弔うために中ノ尾供養碑を建てました。
伊東氏による統治
伊東氏は元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで島津氏に大敗して豊後国に亡命し、伊東氏の依頼により豊後国の大友氏が日向国に侵攻しました。大友氏は耳川の戦いで島津氏に敗れて衰退して豊臣秀吉に救援を求めました。豊臣秀吉は九州征伐を行い島津氏を降伏させると、先導した伊東祐兵に対して天正15年(1587年)に飫肥を与えました。伊東祐兵は飫肥城を居城として天正16年(1588年)に願成就寺を創建して鬼門鎮護としました。願成就寺は藩主や僧侶の修行学問所の役割を果たし、江戸時代初期に交通に便利な現在の地に移築されました。願成就寺は飫肥城下三大寺として手厚く保護され、天保3年(1832年)に13代藩主伊東祐相が本堂を寄進しています。
中ノ尾供養碑
天文18年(1549年)に飫肥城主島津忠広らが伊東軍を奇襲して伊東治部少輔らを討ち取りました。激戦地には島津氏が伊東将兵を弔うために供養碑が建てられました。
飫肥城
豪族土持氏が築城したとされる交通の要衝にある城で、戦国時代に伊東氏と島津氏の激しい争奪戦が起こりました。
江戸時代
江戸時代に飫肥藩が成立すると伊東祐兵が初代藩主となりました。飫肥城下と清武を結ぶ飫肥街道の中間地点には山仮屋関所置かれ、往来する人馬を監視のほか飫肥藩主の参勤交代で休憩所として使用されました。飫肥藩は作物が多く収穫できる土地では無いため特産の飫肥杉が財源を支え、飫肥藩は大いに繁栄して九州の小京都と呼ばれました。
堀川運河
貞享2年(1685年)に飫肥藩主伊東祐実は、飫肥杉を油津港まで安全に運ぶため広瀬川と油津港を結ぶ堀川運河を造営しました。
振徳堂
伊東祐相が天保2年(1831年)に建てた藩校で、安井滄洲と息軒の親子らが教授し、明治時代に外交官として活躍した小村寿太郎などの多くの人物が輩出されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)の廃藩置県により飫肥藩主伊東祐帰が知藩事に任命され豫章館に移り住みました。明治政府の急速な近代化に伴い、人力車や客馬車が各地に普及したことで交通網の整備が必要となり、飫肥と宮崎を結ぶ街道を敷設するため、明治25年(1892年)に県内初のレンガ造りの道路トンネルである山仮屋隧道が完成しました。酒谷の横山宝蔵氏が長崎県より陶工中里音吉らを招いて脇本焼窯跡が造営して明治30年前後の10年間に脇本焼と言われる陶器などが製造されました。
酒谷の坂元棚田及び農山村景観
酒谷の周辺には昭和3年(1928年)には日南市の最高峰である小松山(989m)の麓に坂元棚田が整備されています。