宮崎市
宮崎市は宮崎県の中央部で日向灘に面しています。海岸沿いに広がる宮崎平野の南端に位置し、大淀川や加江田川などの河川が貫流します。太平洋を流れる黒潮の影響により温暖な気候風土に恵まれ、亜熱帯植物が繁殖する青島など南国の情緒が溢れています。
概要
- 面積
- 643.67km2
- 人口
- 400,811人(2021年11月1日)
- 市の木
- クスノキ
- 市の花
- ハナショウブ
- 市の花木
- ツバキ
- 地図
特集
佐土原城と佐土原藩の繁栄
伊東氏が居城とした佐土原城は島津氏へと統治権が移り、やがて垂水島津氏が佐土原藩を立藩して明治時代の廃藩置県まで統治を行いました。
歴史
大淀川や加江田川旧石器時代から人の営みがあり、古墳時代には九州最大の古墳群である生目古墳群などが築かれました。奈良時代に都萬神社の日下部氏や鎌倉時代に宇佐宮弁済使の土持氏が勢力を誇りますが、室町時代に伊東氏に支配権が変わりました。戦国時代に島津氏が伊東氏を追い出して佐土原城を中心に支配しています。明治時代以降に宮崎県が成立すると県庁所在地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代の上ノ原遺跡や下星野遺跡から石器が出土しています。縄文時代創成期には定住を始めますが、宮崎県は火山灰が多く水はけの良い土地が多いため水田稲作よりも畑作が主流でした。弥生時代後期からは宮崎平野を中心に花びらの形をした花弁状住居と呼ばれる南九州特有の竪穴式住居が建てられました。
清武上猪ノ原遺跡
船引地区の標高60メートルほどのシラス台地上に位置する縄文時代草創期の集落跡で、竪穴建物跡のほか集石遺構や土坑群などが確認されました。
本野原遺跡
縄文時代前期から後期にかけて造営された西日本最大級の集落遺跡で、竪穴住居が総数113軒確認されました。
下那珂遺跡
弥生時代中期の集落跡ですが、総合農業試験場の敷地内で見学できません。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代前期から後期に大淀川の南部の標高25メートルの跡江丘陵に多くの古墳が造営されました。
生目古墳群
前方後円墳7基と円墳44基のうち全長100メートルを超える古墳が3基あります。前方後円墳と南九州特有の地下式横穴墓がある古墳時代前期の九州最大の古墳群です。
蓮ヶ池横穴群
大淀川の支流新別府川の北側の丘陵にある82基の横穴で、53号墳の玄室壁面にある人物や船、鬼の顔等の線刻は当時の人たちの生死に関する考え方を示しています。
広瀬村古墳
下那珂・下田島地区に分布する古墳や横穴墓で前方後円墳2基、円墳23基と横穴墓53基が県史跡に指定されています。
赤江町古墳
大型円墳で横穴式石室である可能性が高く古墳時代後期頃の首長墓級と考えられています。
倉岡村古墳
淀川と本庄川とにはさまれた糸原地区に所在する前方後円墳1基、円墳3基、横穴墓5基の古墳群です。
佐土原町古墳
巨田・仲間原に広がる低丘陵上に立地する円墳2基、横穴墓35基の古墳です。
青島村古墳
日向灘を望む丘陵上に位置する円墳5基の古墳です。近くには県内最大級の松添貝塚があります。
宮崎市大淀古墳
大淀川の右岸に位置する大塚地区を中心にして分布する前方後円墳3基、円墳1基、横穴1基の古墳です。
那珂村古墳
石崎川の沖積地を望む丘陵上に位置する横穴墓24基の古墳です。
木花村古墳
清武川右岸の丘陵上に立地する前方後円墳3基、円墳5基の古墳です。
住吉村古墳
宮崎市街地北部の丘陵上に立地する前方後円墳2基、円墳2基、横穴墓55基からなります。
宮崎市下北方古墳
大淀川左岸の低台地上と平和の塔西側に連なる丘陵上に立地する前方後円墳4基と円墳12基の古墳です。
高岡町古墳
大淀川北岸の台地上に分布する円墳4基です。
瓜生野村古墳
大淀川支流の五十鈴川を取り囲む丘陵斜面に分布している前方後円墳1基と円墳6基、横穴墓40基の古墳です。
池内横穴
6世紀末~7世紀初頭に築造され、8世紀まで追葬が続いたとみられる横穴墓です。
船塚古墳
宮崎神宮本殿の北側に隣接する前方後円墳で、神武天皇の船を埋めた塚などの伝承が残ります。
奈良時代、平安時代
奈良時代の終わりに木花開耶姫を祀る都萬神社の祠官である日下部氏が大きな勢力を誇りました。山幸彦と豊玉姫が結ばれた地に青島神社が820年以前から奉祀され、伊邪那岐命が黄泉の国で穢れた体を清めたみそぎ池に江田神社が創建しました。
青島
山幸彦と豊玉姫が結ばれた地で島全体が霊域とされ、江戸時代まで一般人の入島が禁止されていました。
江田神社
延喜5年(905年)の延喜式に記述されている式内社です。伊邪那岐命が黄泉の国で穢れた体を清めるために身を沈めたみそぎ池があり、みそぎ発祥の地や祝詞発祥の地とりました。
鎌倉時代、南北朝時代
日下部氏と姻戚関係を強めた日向北部の宇佐宮領の弁済使土持氏が地頭に任ぜられました。南北朝時代はじめに足利尊氏から都於郡を恩賞として与えられた伊東祐持は、土持氏と姻戚関係を結ぶことで勢力を拡大していきました。日向国守護の畠山直顕が居城とした穆佐城は島津久豊が入りましたが、文安2年(1445年)に伊東祐堯が本拠として、長禄元年(1457年)に財部土持氏を下して伊東氏による日向支配の基礎を築きました。
穆佐城跡
穆佐院政所が置かれていたため南北朝時代に日向国守護の畠山直顕が居城としました。応永10年(1403年)には島津8代当主島津久豊が穆佐城に入りました。
島津久豊墓
島津8代当主島津久豊は穆佐城に入り拠点としました。穆佐城の麓には安政4年(1857年)に島津久豊の墓が建立されています。
室町時代、安土桃山時代
伊東氏の分家である田嶋休祐は佐土原城を築き、伊東氏の全盛期を築いた伊東義祐が居城としました。天文20年(1551年)に太田七郎左衛門忠延が城ケ崎を開いて、赤江港を備えた商人の町として交易を中心として栄えました。天正5年(1577年)に伊東氏は薩摩や大隅を支配していた島津氏に敗れて豊後に落ち延びると島津家久が佐土原城に入りました。
佐土原城跡
伊東氏を最盛期に導いた伊東義祐が居城を都於郡城から移しましたが、天正5年(1577年)に伊東氏は豊後に落ち延びて島津家久が城主となりました。
天ヶ城
関ヶ原合戦を経て国境警備の必要性を痛感した島津義弘が築城して比志島国貞を地頭に任命しました。
江戸時代
慶長8年(1603年)に島津貴久の弟島津忠将の子島津以久が佐土原城を居城としました。島津以久の子島津忠興は慶長17年(1612年)に佐土原藩の菩提寺として高月院を建立しました。大光寺にも佐土原藩島津家の霊廟が建てられています。薩摩藩は琉球や唐との密貿易を行うため人の往来を厳しく制限しました。
去川の関跡
出水筋の野間の関所、大口筋の小川内関所とともに薩摩の三大関所と呼ばれ、永禄年間(1558~70年)に伊勢国から移住した二見久信とその子孫が番所を務めました。
安井息軒旧宅
江戸時代中期の儒学者・安井息軒は、文政3年(1820年)に大坂の篠崎小竹の塾に入門するまでの期間と郷校明教堂を設立した4年間を旧宅で過ごしました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治6年(1873年)に美々津県と都城県東部が合併して宮崎県が生まれ、中心に位置する宮崎市に県庁が置かれました。明治政府の近代化政策は士族の不満を買い、明治7年(1874年)の佐賀の乱を皮切りに明治9年(1876年)の神風連の乱、明治10年(1877年)の西南戦争が立て続けに起きました。西南戦争で混乱した宮崎県は分裂して消滅しましたが、明治16年(1883年)に飫肥藩士の川越進らが分県運動を起こして再び宮崎県が設置され、大正13年(1924年)に宮崎市が成立して県庁所在地となりました。
谷村計介旧宅
明治政府の軍人として九州各地の反乱に従軍しました。西南戦争では熊本城から西郷軍の包囲網を抜けて政府軍と連絡を取る役目を果たしましたが最大の激戦地である田原坂で戦死しました。
平和台公園
昭和15年(1940年)に皇紀2600年を記念した平和の塔が建てられました。平和の塔の正面に刻まれている八紘一宇の文字は秩父宮雍仁親王の書です。