西都市
西都市は宮崎県のほぼ中央部に位置し、北西から南東に一ツ瀬川が貫流しています。一ツ瀬川は左岸に茶臼原、右岸に西都原などの洪積台地を開き、沖積平野を作り上げて日向灘に注ぎます。一ツ瀬川を中心に古代日向国の中心となり日本最大の311基の古墳が造られ、国府や国分寺が置かれました。
概要
- 面積
- 438.79km2
- 人口
- 28,049人(2022年2月1日)
- 市の木
- ヤマモモ
- 市の花
- ミツバツツジ
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
特集
宮崎平野中部の古墳
宮崎県内の古墳の約半数が西都市内に点在しています。その中には日本神話に登場する瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の陵墓と伝えられる男挟穂塚と女挟穂塚が含まれます。
歴史
西都市は古代の日向国の都が置かれた地です。縄文時代から続く人の営みが、やがて西都原古墳群に見られるような古墳を造りました。大和朝廷が成立すると西都原古墳群の麓に国府や国分寺が造られ大いに発展しました。日下部氏、土持氏と続いて伊東氏が支配しますが、やがて島津氏の勢力下になり明治時代を迎えることになります。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
西都市は、縄文時代前期の原口遺跡や縄文時代後期の銀鏡上原遺跡などで古くから人が営んでいました。弥生時代には大口川遺跡や寺原遺跡などから農耕遺物が出土して、農耕が営まれていたことが知られています。
古墳時代、飛鳥時代
西都市は古代日向の政治や経済の中心地として多くの集落が栄え、宮崎県内に造営された二千数百基の古墳のうち約半数は西都市内に点在しています。西都原古墳群は3世紀後半から7世紀前半にかけて造営された311基の古墳で構成される遺跡で、前方後円墳31基、方墳1基や円墳279基のほかに柄鏡式古墳が10基以上、地下式横穴が10基あります。日本神話の瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の陵墓と伝えられる男挟穂塚と女挟穂塚があります。
奈良時代、平安時代
大和王権が国家を統一して全国を支配下に置くと、日向では西都原古墳群に朝廷直轄領として屯倉が置かれました。皇極天皇4年(645年)の大化の改新により国郡制が敷かれると西都原台地の麓に日向国府が置かれました。天平13年(741年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため日本各国に国分寺を建立する詔を発すると、日向国府の少し離れたところに日向国分寺が建てられました。やがて奈良時代の終わりには木花開耶姫を祀る都萬神社の祠官である日下部氏が日向の代表的な豪族に成長していきました。
日向国府跡
7世紀末から8世紀後半の東西に並ぶ2棟の掘立柱東西棟建物や溝があり、墨書が書かれた土器が発見されました。9世紀後半から10世紀前半で正殿の建替などが行われました。
日向国分寺跡
寺域は東西150メートル、南北190メートルほどで、北北東1キロに日向国分尼寺がありました。中門と講堂の中間に基壇の痕跡があるため国分寺式の配置と考えられています。
鎌倉時代、南北朝時代
宇佐八幡宮の社人である土持氏は、日向北部の宇佐宮領の弁済使として勢力を伸ばしました。土持氏は日下部氏と姻戚関係を強めることで文治3年(1187年)に日下部氏の広大な所領を獲得しました。土持氏は鎌倉の源頼朝とも関係を深め、鎌倉時代には地頭に任じられました。
室町時代、安土桃山時代
南北朝時代はじめに足利尊氏から都於郡を恩賞として与えられた伊東祐持は都於郡に城を築き、この地を本拠に土持氏と姻戚関係を結ぶことで勢力を拡大していきました。伊東氏は一時は飫肥、真幸、庄内、都城などに支配を広げ伊東48城と言われるほど日向のほぼ全域を支配しました。
島津氏の台頭
元亀3年(1572年)に九州の桶狭間と言われる木崎原の戦いで伊東氏は島津氏に敗れ、天正5年(1577年)に豊後の大友宗麟を頼り亡命しました。伊東氏に代わり日向を支配した島津氏はさらに勢力を拡大して一時は九州全土を支配する勢いでしたが豊臣秀吉の九州征伐で降伏し、西都市は島津氏の分家佐土原藩領となりました。
都於郡城跡
伊東氏の本拠として築かれた主郭と周囲の郭が空堀の土塁で分けられた城で、遣欧少年団の正使となる伊東マンショが天正10年(1582年)に生誕した場所でもあります。
江戸時代
江戸時代になると穂北は延岡藩領となり藩政中期には幕府領となりました。三納・三財・都於郡・妻は佐土原藩領に東米良と西米良は人吉藩領となるなど、西都は三つに分割され明治まで続きました。
明治時代、大正時代、昭和時代
西都市は明治4年(1871年)の廃藩置県で日向国は廃止され現在の西都市は人吉県となり、翌年に美々津県に移管されました。昭和30年(1955年)に妻と上穂北村が合併して西都町となり、昭和33年(1958年)に西都町が西都市となり現在に至ります。