歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

島津氏の歴史と繁栄

鹿児島市の仙厳園

島津氏は、鎌倉時代に源頼朝から日本最大の荘園島津荘の地頭職を与えられて鹿児島を中心に700年もの間統治を行いました。島津に暗君なしと言われる名家で、本州最南端の地の利を生かして交易を盛んに行い、江戸時代後期には西洋文化を取り入れて近代日本の先駆けとなりました。

島津氏の支配の始まり

島津氏は鎌倉時代の文治元年(1185年)に島津忠久が源頼朝から日本最大で南九州の荘園である島津荘の下司職から地頭職に任命されました。島津忠久は建仁3年(1203年)に比企氏の乱に連座して島津荘地頭職を解かれて没収されますが、元弘3年(1333年)に足利尊氏の催促により鎌倉幕府に反旗を翻し、鎌倉幕府が崩壊したことで島津貞久が島津荘の地頭職に戻りました。

南北朝時代の争乱

島津貞久は北朝方となり南朝方の禰寝氏、谷山氏、伊集院氏らと対立して、暦応4年(1341年)に東福寺城を攻略しました。康永元年(1342年)に懐良親王が谷山城に入ると一時的に南朝方となりますが、のちに北朝方に戻ります。島津貞久が亡くなると島津師久(総宗家)と島津氏久(奥州家)の兄弟が分割統治し、島津氏久が東福寺城を拠点としました。

神奈川県鎌倉市の島津忠久墓

島津忠久墓

鎌倉時代に島津荘の地頭職となり、鎌倉市に墓が残されています。

鹿児島県鹿児島市の谷山本城

谷山本城

後醍醐天皇の皇子である懐良親王が招かれて薩摩国の南朝方の拠点となりました。

島津氏の争乱と繁栄

総宗家と奥州家は次第に対立を深め、争いに勝利した奥州家が家督を相続して守護職になりました。島津元久は嘉慶元年(1387年)に清水城を築城して応永元年(1394年)に島津本家の菩提寺として福昌寺を建立しました。やがて島津氏は琉球と交流しますが、国内は国中大乱と呼ばれる戦乱の世となりました。

島津相州家の台頭

島津家の家督相続で島津勝久(本家)、島津忠良(相州家)、島津実久(薩州家)の3家が争うようになりました。大永6年(1526年)に相州家の島津貴久が養子として迎えられて家督を継承すると、更に内乱を悪化させました。島津貴久は薩摩を平定して、その子島津義久は弟の義弘、歳久、家久を従えて九州をほぼ平定するほど勢力を拡大しました。

鹿児島県鹿児島市の福昌寺跡

福昌寺跡

島津氏の菩提寺として建立されました。

鹿児島県鹿児島市の島津家墓所

島津家墓所

廃仏毀釈により福昌寺が廃寺となり、島津家の墓だけが残されています。

薩摩藩の成立

島津氏に追われた大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求めて、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の軍に攻められました。戸次川の戦いでは大打撃を与えますが、天正15年(1587年)に降伏しました。豊臣秀吉による朝鮮出兵では、島津義弘が泗川の戦いで明の数万の大軍をわずか数千人で倒し、露梁海戦では朝鮮軍の李舜臣を戦死させました。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは島津義弘が参戦し、東軍大将の徳川家康の本陣を突破して帰国しました。島津忠恒は徳川家康と交渉して所領安堵を勝ち取り、慶長11年(1606年)に徳川家康から家の字を与えられて島津忠恒は島津家久に改名しました。島津家久は慶長6年(1601年)に鹿児島城を築城して城下町を整備し、慶長14年(1609年)に琉球へ侵攻して降伏させました。

鹿児島県鹿児島市の薩摩焼

薩摩焼

島津義弘が朝鮮出兵から帰還する際に朝鮮から連れて来た陶工により始められました。

鹿児島県鹿児島市の鹿児島城

鹿児島城

関ヶ原の戦いが終わり平和な世の中になることを見据えて、島津忠恒が海に近い平坦な地形に居城を築城しました。

仙厳園

江戸時代初期の2代藩主島津光久は、桜島を築山に錦江湾を池に見立てた別邸仙厳園を万治元年(1658年)に築庭しました。望嶽楼や千尋巌、曲水の庭や江南竹林などの中国文化の影響が見られ、貿易を通じて中国などの交流を物語ります。

鹿児島県鹿児島市の仙厳園

仙厳園

薩摩藩島津家の別邸として2代藩主島津光久が造営し、享保6年(1721年)に4代藩主島津吉貴が隠居して5代藩主島津継豊を補佐したため藩政の中核となりました。

鹿児島県鹿児島市の仙厳園

仙厳園

仙厳園の庭園は桜島と鹿児島湾(錦江湾)を借景としており、御殿から桜島と庭園を眺めることができます。

鹿児島県鹿児島市の旅行で訪れた観光名所、仙厳園

仙厳園

元文元年(1736年)に琉球を通じて中国から江南竹(孟宗竹)を取り寄せて植えられました。

鹿児島県鹿児島市の仙厳園御殿

仙厳園御殿

御殿は幕末から明治時代に迎賓館となり最後の藩主島津忠義が暮らしていました。篤姫や幕臣の勝海舟、ロシア皇帝ニコライ2世、英国国王エドワード8世が訪れました。

薩摩の近代化

島津重豪は海外の情報文化に強い関心を示し、安永2年(1773年)に藩校造士館や演武館、医学院を設立したほか、安永8年(1779年)に明時館(天文館)を創建して独自の薩摩暦を作りました。重豪の政策は度重なる風水害や安永の大噴火により多額の負債を抱えることなり、島津斉興の家老調書広郷が文政11年(1828年)から財政改革を行いました。

お遊羅騒動

調書広郷らは、重豪の影響を受けていた島津斉彬は藩の財政を破綻させると考えて家督譲渡を躊躇しました。島津斉興の側室お遊羅は自身の子である島津久光を藩主に据えることを画策したため、斉彬の子を呪詛して殺害している噂が流れ、お遊羅騒動となりました。この騒動に老中阿部正弘が関与して、嘉永4年(1851年)に斉興は隠居して斉彬に家督が譲られました。

鹿児島県鹿児島市の旅行で訪れた観光名所、島津氏の庭園

藩校造士館跡

海外の情報文化に強い関心を示した島津重豪が建てた薩摩藩の学校です。

鹿児島県鹿児島市の島津氏の庭園

島津斉彬

集成館事業を推し進め、富国強兵や殖産興業の政策を推し進めました。

旧島津氏玉里邸庭園

天保6年(1835年)に島津斉興が築庭した旧島津氏玉里邸庭園は、島津斉興が藩主の地位を斉彬に譲り隠居したところです。明治10年(1877年)の西南戦争で焼失し島津久光が再築して移り住み、久光の子忠済の別邸になりましたが、昭和20年(1945年)の太平洋戦争で茶室、長屋門、黒門を残して建造物は焼失しました。旧島津氏玉里邸庭園は平成19年(2007年)に国の名勝に指定されました。

鹿児島県鹿児島市の旧島津氏玉里邸庭園

旧島津氏玉里邸庭園

3つの築山と楕円形の園庭がある上御庭と三重石塔型の灯籠など独特の意匠を持つ景観がある回遊式庭園の下御庭に分かれています。

鹿児島県鹿児島市の旧島津氏玉里邸庭園の水道高桝

水道高桝

自然流下と圧力給水方式による水道施設が整備されています。

日本の近代化の先駆け

日本の植民地化を危惧した島津斉彬は、富国強兵を考えて仙厳園に工場群を築いて集成館事業に着手しました。軍事品のみならず薩摩切子や新たな薩摩焼の製作、ガス灯や写真、活版印刷などの研究を行いました。また今和泉家の於一(天璋院篤姫)を将軍家定に嫁がせています。島津斉彬の跡を継いだ島津忠義は、島津久光を後見役として集成館事業を縮小しましたが、文久3年(1863年)の薩英戦争で集成館事業の必要性を再認識し、慶応元年(1865年)に藩士をイギリスに派遣して密接な関係を結びました。近代化を進めた薩摩藩は討幕を進め、明治維新の原動力となりました。

鹿児島県鹿児島市の尚古集成館

尚古集成館

日本の近代化を推し進めるため、島津斉彬が集成館事業を始めました。

鹿児島県鹿児島市の若き薩摩の群像

若き薩摩の群像

鎖国時代にありながら外国の文化を学ぶため、薩摩藩士が命がけでイギリスに留学しました。