歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

鹿児島市

鹿児島市の桜島

鹿児島市は、雄大な桜島や波静かな錦江湾などの自然に恵まれ、島津77万石の城下町として栄えた歴史情緒にあふれる都市です。16世紀にフランシスコ・ザビエルが上陸して初めてキリスト教が伝えられ、19世紀には反射炉や溶鉱炉が造られ近代工業化の発祥の地となりました。新しい文化を取り入れる風土は、西郷隆盛や大久保利通などの明治維新の原動力となりました。

概要

面積
547.58km2
人口
592,277人(2021年11月)
市の木
クスノキ
市の花
キョウチクトウ
地図

特集

鹿児島県の仙厳園

島津氏の歴史と繁栄

日本最大の荘園島津荘の地頭職から始まり戦国時代に九州をほぼ統一した島津氏は、暗君なしの名家と言われて明治維新の礎ともなりました。

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鹿児島県の尚古集成館

日本近代化の先駆け集成館事業

薩摩藩主島津斉彬は来航する外国船の脅威に対抗するため、富国強兵や殖産興業を進めるため集成館事業を進めました。

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鹿児島県の城山

武士社会の終焉と西南戦争

西郷隆盛は士族の不満を一心に受け止めて西南戦争を起こし新政府軍と戦いましたが、これに敗れて武士社会は完全に終焉することになりました。

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歴史

鹿児島市は隼人や熊襲と呼ばれる人たちが生活していました。次第に大和政権に従うようになり、鎌倉時代には惟宗忠久が島津荘の地頭職となり島津姓を名乗り支配しました。鹿児島市は島津氏の本拠として発展しましたが、明治時代に士族最後の内乱である西南戦争の本拠地として戦場となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代は、各地を移動しながら主に狩りをする人たちが生活していました。縄文時代に人が定着するようになり、掃除山遺跡からは竪穴住居跡や摺石などが、草野遺跡からはたくさんの貝殻や動物の骨が発見されています。

鹿児島市の弥生式住居跡

弥生式住居跡

縄文時代末期から稲作が開始されて集落が形成し、鹿児島市内最古の一之宮神社からは弥生時代中期の住居跡が4基発見されました。

古墳時代、飛鳥時代

鹿児島県の周辺で生活していた人たちは、4世紀に勢力を広げた大和王権に対して反抗的な態度を示したため、大化の改新の重要政策である班田制の導入が遅れました。大和王権はこれらの人びとを熊襲や隼人と侮辱的に呼び、関係が悪化したことで養老4年(720年)に大隅国の隼人が反乱を起こしました。反乱は薩摩国や日向国に広がりましたが、やがて大和王権が鎮圧して支配下に置きました。

奈良時代、平安時代

万寿3年(1026年)に太宰府の大監である平季基が宮崎県都城市を開墾して摂関家藤原頼通に寄進して島津荘を開きました。島津荘が寄郡化すると、ほとんどの郡司職は薩摩平氏の伊作良道とその姻戚に独占されました。一族の阿多忠景は源為朝を婿にして勢力を広げましたが、源為朝が保元の乱で敗れたことで平治元年(1159年)に勅命で勘当されて薩摩硫黄島に落ち延びました。

鎌倉時代、南北朝時代

源頼朝が武家政権を成立させると、文治元年(1185年)に惟宗忠久が島津荘の下司職を与えられました。惟宗忠久は下司職から地頭職となり、建久8年(1197年)には守護職として島津忠久を名乗りました。建仁3年(1203年)に比企能員が滅亡すると、島津忠久は後ろ盾を失い島津荘の地頭職を解任されました。元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が崩壊したことで島津貞久が島津荘の地頭職に戻り、これにより島津氏は北朝方に与することになります。

鹿児島市の川田堂園供養塔群

川田堂園供養塔群

満家院(郡山地区)の領主比志島栄尊の三男・比志島盛佐(盛資)は川田の地を与えられ川田盛佐と名乗り、比志島氏の供養のため川田堂園に五輪塔や宝塔などの供養塔を建立しました。

室町時代、安土桃山時代

暦応元年(1338年)に室町幕府が成立すると幕府から南朝方の討伐の命令が下り、暦応4年(1341年)に島津貞久は中村忠秀が守る東福寺城を攻略して薩摩国を統治する拠点としました。島津貞久の子島津元久は嘉慶元年(1387年)に東福寺城の麓に清水城を築いて居城を移しました。

文化の興隆

文明10年(1478年)に島津忠昌に招かれた桂庵玄樹は、島津氏の家臣や僧侶に朱子学を教え、文明13年(1481年)には日本で初めて大学章句を出版して薩南学派の始祖となりました。天文18年(1549年)には島津貴久がフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を認め、翌年の天文19年(1550年)には御内館(内城)を築城して居城としましたが、慶長7年(1602年)に初代藩主となる島津忠恒が鹿児島城を築城して居城を移しました。

鹿児島市の谷山本城

谷山本城

康永元年(1342年)に後醍醐天皇の皇子懐良親王が郡司の谷山隆信に迎えられた城で、ここを拠点して北朝方と激しく戦いました。

鹿児島市の桂庵墓

桂庵墓

桂庵の教えは島津氏中興の祖島津忠良や江戸時代の島津家の政治・外交の顧問である大龍寺住職南浦文之らに広められました。

鹿児島市のザビエル滞鹿記念碑

ザビエル滞鹿記念碑

天文18年(1549年)にフランシスコ・ザビエルが現在の祇園之洲町付近に上陸して日本で初めてキリスト教を伝来しました。

鹿児島市の鹿児島城

鹿児島城

島津忠恒(のちに島津家久に改名)は鹿児島城を築城して、慶長7年(1602年)に居城を移しました。

江戸時代

2代藩主島津光久は、万治元年(1658年)に仙厳園を造営して繁栄しましたが、幕府の命を受けた宝暦3年(1753年)の木曽川、揖斐川、長良川の治水工事で大きな負担を強いられました。8代藩主島津重豪は蘭学などの海外の文化に興味を抱き、安永2年(1773年)には藩校造士館、演武館、医学院を設立して、安永8年(1779年)に明時館(天文館)を創建して独自の薩摩暦を作るなどの改革を行いました。藩の財政は悪化して家老調書広郷が文政11年(1828年)から黒糖の専売など財政改革を行いました。

集成館事業

日本の植民地化を危惧した島津斉彬は、富国強兵を考えて仙厳園に工場群を築いて集成館事業に着手しました。島津斉彬の死後に集成館事業は縮小されてましたが、文久3年(1863年)の薩英戦争で必要性が認められて再び推し進められました。島津斉彬は元治元年(1864年)に照国神社が創建されて祀られています。

鹿児島市の仙厳園

仙厳園

島津家久の跡を継いだ2代藩主島津光久は、万治元年(1658年)に桜島と錦江湾を借景としている仙厳園を造園しました。

鹿児島市の刀匠玉置家歴代の墓

刀匠玉置家歴代の墓

谷山波之平の刀匠安行の門人となる玉置一平安代が徳川吉宗の命により享保6年(1721年)に御腰物二振を作り、茎に葵一葉を許されて主馬首に任じられました。

鹿児島市の平田靱負屋敷跡

平田靱負屋敷跡

宝暦3年(1753年)には幕府の命により家老平田靱負が木曽、揖斐、長良の三川の治水工事を行い、80人あまりの藩士が犠牲となり40万両の費用を負担することになりました。

鹿児島市の尚古集成館

尚古集成館

島津斉彬が近代化を目指して進めた集成館事業は斉彬が没して縮小されますが、文久3年(1863年)の薩英戦争で必要性が認められて再び推し進められました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治政府が成立すると、明治政府は士族から権限や俸禄を奪いました。士族は新政府に対して不満を持つようになり、征韓論で敗れて帰郷した西郷隆盛は明治7年(1874年)に士族を指導する私学校を創設しました。新政府は私学校に対して警戒を強めて私学校生徒を刺激したため、明治10年(1877年)に西南戦争に発展しました。

火山と戦争被害

大正から昭和初期にかけて桜島の火山活動が活発化しました。大正3年(1914年)の大噴火では大隅半島と陸続きとなり、昭和21年(1946年)には溶岩で黒神部落の8割が埋没しました。第二次世界大戦末期には8回にわたる空襲で市街地の約9割を焼失しました。

鹿児島市の私学校跡

私学校跡

西郷隆盛は薩軍を指揮して戦うことになりましたが、新政府軍に敗れて城山で自刃しました。西郷隆盛が設立した私学校の壁には西南戦争の弾痕が残ります。

鹿児島市の黒神埋没鳥居

黒神埋没鳥居

昭和21年(1946年)の桜島の噴火で黒神地区の神社の鳥居が埋没しました。