集成館事業
薩摩藩主島津斉彬は来航する外国船の脅威に対抗するため、富国強兵や殖産興業を進めるため集成館事業を進めました。斉彬死後に集成館事業は縮小されますが、薩英戦争により近代化の必要性を再確認して集成館事業が再開されました。この事業は明治維新の近代化の先駆けとなりました。
幕末の情勢
慶長14年(1609年)に琉球へ侵攻して降伏させた島津氏は、琉球貿易などを通じて世界情勢や外国書物などに触れていました。8代藩主島津重豪は藩校造士館や明時館(天文館)を設立して学問の普及や天文学の研究などを行うほか、蘭学にも強い興味を示してシーボルトとも会見しています。
アヘン戦争
大国の中国清がイギリスに敗北した戦争で、日本に大きな衝撃を与えました。
島津斉彬
島津斉彬はアヘン戦争などの海外情勢を踏まえ、外国船の脅威に対抗する技術を養うために集成館事業を興しました。
天保14年(1843年)に中国清がアヘン戦争でイギリスに敗れると、薩摩藩は毎年のようにイギリスやフランスの軍艦が通航するようになり緊張が高まりました。島津重豪の影響を受けて海外に目を向けていた島津斉彬は、日本を守るために近代化を推し進めることを考えるようになりました。
集成館事業
嘉永4年(1851年)に藩主に就任した島津斉彬は、富国強兵や殖産興業を進めるため仙厳園周辺の竹林を切り開いて集成館事業を始めました。オランダの書物を読み解いて、鉄鉱石や砂鉄を溶かして鉄を作る溶鉱炉を整備して、その鉄を溶かして鉄製の大砲を作る反射炉を造営しました。
溶鉱炉跡
仙巌園のそばに反射炉などの設備が造営されました。現在は溶鉱炉跡に鶴峯神社が建立しています。
反射炉跡
製鉄した鉄を溶かして大砲の形に整形するために建造されました。
鉄の精製や大砲を造営するため、電気が無い時代では水車による水力や木炭を使用しました。高台の吉野台地を流れるあべ木川からおよそ7キロにわたる関吉の疏水溝を整備し、反射炉で鉄を溶かすために必要な燃料を確保するため、原料となる森の中に寺山炭窯跡を構えて木炭の中でも火力が強い白炭を製造しました。
関吉の疏水溝
動力として水車を利用するため、7キロにわたり水路が築かれました。
寺山炭窯跡
集成館事業で必要となる火力を得るため、近くで伐採された木で燃料となる木炭を作りました。
嘉永6年(1853年)から洋式軍艦を桜島の造船所で建造を始め、安政2年(1855年)に昇平丸と命名されて幕府に献上しました。このとき外国船と識別するために掲げられた旗が国旗の日の丸でした。さらに蒸気機関の国産化を試みて日本初の蒸気船である雲行丸を完成させました。
昇平丸
島津斉彬が建造した洋式軍艦で、日本の国旗となる日の丸が初めて掲げられました。
磯造船所跡
軍艦を整備するために必要な造船所を集成館近くの海辺に整備されました。
新たな産業としてガラス工芸品の薩摩切子などを生み出しましたが、安政5年(1858年)に島津斉彬が没すると集成館事業は大幅に縮小されました。
薩英戦争と近代化の波
島津斉彬の弟である島津久光は1862年に江戸から薩摩に戻る途中に現在の横浜市鶴見区で大名行列を横切るイギリス人を殺傷する生麦事件を起こしました。イギリスは薩摩藩に対して賠償金と犯人の処罰を要求しますが、薩摩藩が拒否したため薩英戦争に発展しました。
祇園ノ洲砲台跡
島津斉彬が集成館事業で製造した大砲が配備された砲台です。
天保山砲台跡
薩英戦争でイギリス軍艦から砲撃を受けました。
文久3年(1863年)にイギリス艦隊は錦江湾に侵入して砲撃して、薩摩藩は島津斉彬が造営した砲台から集成館事業で製造した大砲で応戦しました。戦争はイギリス軍が優勢で薩摩藩の砲台や城下の一部や集成館も炎上しました。薩英戦争ではイギリスとの技術の差を思い知らされ、薩摩藩は再び近代化の必要性を感じて縮小された集成館事業は再開されました。
外国文化の導入
島津久光と12代藩主島津忠義は薩英戦争を通して集成館事業の大切さを再認識しました。知人にイギリス商人トーマス・グラバーを持つ五代友厚は、文久2年(1862年)に薩摩藩にイギリスへの留学生派遣を提案しました。日本は外国との交流を禁止する鎖国の時代でしたが、慶応元年(1865年)に五代友厚を始めとする19人の若者がイギリスに留学しました。
若き薩摩の群像
鎖国時代に命がけでイギリスに留学した薩摩藩士は、薩摩スチューデントと呼ばれています。
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
イギリス人技師を招いた際、イギリス人技師の住居として建てられました。
15代将軍徳川慶喜が大政奉還した慶応3年(1867年)に薩摩では綿花から糸をつくる日本初の洋式紡績工場が完成しました。イギリスから技術者を招き1年ほど技術指導を仰ぎました。旧鹿児島紡績所技師館(異人館)はイギリスの技術者が生活した洋風建築で西南戦争では仮病院となるなど利用されました。
集成館事業の廃止
1868年に明治政府が誕生すると日本は近代国家に向けて動き出しました。旧集成館機械工場(尚古集成館)は明治4年(1871年)の廃藩置県で官有となり鹿児島製造所と改称されました。明治10年(1877年)の西南戦争では私学校生徒に占領されました。
尚古集成館
現在は集成館事業を展示する博物館として利用されています。
旧集成館
明治5年頃には工場がたくさん建ち並びました。
明治22年(1889年)に島津家の所有となり製糖工場の倉庫、大正8年(1919年)に機械工場となりますが、大正12年(1923年)に尚古集成館として公開されました。尚古集成館を含む集成館事業の遺構は平成27年(2015年)に明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されました。