歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

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武士社会の終焉と西南戦争

鹿児島市の私学校石塀

江戸幕府が倒れて富国強兵と殖産興業を推し進める明治政府が成立すると、これまで戦いを生業としていた士族は特権や経済基盤を失い不満を抱えるようになりました。西郷隆盛は士族の不満を一心に受け止めて西南戦争を起こし新政府軍と戦いましたが、これに敗れて武士社会は完全に終焉することになりました。

武士の不満と征韓論

慶応4年(1868年)に新たな政府が成立して元号を明治に改めると、新政府は富国強兵と殖産興業を推し進めました。明治6年(1873年)には徴兵令を公布して近代的な軍隊を整備して、明治9年(1876年)には廃刀令や秩禄処分で士族から日本刀や俸禄支給を取り上げました。これまで戦うことを生業として特権が与えられ、俸禄を得ていた武士は新政府に対して不満を高めていきました。

鹿児島県鹿児島市の西郷生誕地

西郷生誕地

維新三傑と言われた西郷隆盛が下級武士の家に生まれました。

鹿児島県鹿児島市の西郷隆盛像

西郷隆盛像

西郷隆盛は西南戦争を起こして賊軍扱いになりましたが、これまでの功績により後に許されました。

日本の開国要求を朝鮮が拒否すると、西郷隆盛は自身が使者として交渉することを提案し、もし危害を加えられればそれを大義名分として朝鮮に侵攻する征韓論を主張しました。西郷を想う明治天皇はこの申し入れに難色を示し、岩倉遣欧使節の帰国を待つよう指示しました。やがて帰国した岩倉らの反対により征韓論が見送られると、西郷は政府の要職を辞任して故郷鹿児島に戻りました。西郷を慕う軍人や役人たち600名は政府を離れて参議の半数以上が政府を離れる明治6年の政変となり、鹿児島は新政府に不満を抱く反乱分子が集まる環境となりました。

政府に対する士族の反乱

明治6年の政変により新政府に不満を抱える士族が反乱を起こすようになりました。明治7年(1874年)には江藤新平が佐賀の乱を起こしますが、新政府軍の圧倒的な火力で鎮圧されました。江藤は西郷隆盛に助力を求めますが西郷はこれを断り、江藤は赴いた高知で捕縛されて処刑されました。

佐賀の乱

佐賀の乱

江藤新平が不満士族を率いて反乱を起こしました。

神風連の乱

神風連の乱

不満を持つ士族たちは新政府に対して熊本で反乱を起こしました。

明治9年(1876年)の廃刀令や秩禄処分により熊本で神風連の乱が起こり、これに呼応する形で福岡で秋月の乱、山口で萩の乱などが相次いで起こりました。士族の怒りは頂点に達して西郷の決起を期待しますが、西郷は隠棲生活から抜けることはありませんでした。

私学校の創設

鹿児島に帰郷した西郷隆盛は、職を失い路頭に迷う士族を指導するために明治7年(1874年)に私学校を創設しました。私学校の運営に西郷は直接指導していていませんが、桐野利秋ら幹部が外国からの侵攻を見据えて銃や大砲の扱い方などの戦闘訓練を指導しました。新政府は西郷が強力な軍隊を組織していると捉えて警戒するようになりました。

鹿児島県鹿児島市の私学校

私学校

士族を指導するために西郷隆盛が創設した学校でした。

鹿児島県肝属郡の西郷隆盛逗留地

西郷隆盛逗留地

征韓論に敗れた西郷隆盛は東京から下野して根占などで逗留しました。

私学校の生徒が育ち鹿児島の政治をリードするようになると、新政府から脅威と見なされるようになりました。新政府は鹿児島にある日本新鋭の武器や弾薬を密かに搬出し、初代大警視川路利良は中原尚雄を派遣して偵察しました。私学校生徒は中原を捕縛すると尋問しますが、西郷の視察と白状したことが刺殺と伝わり私学校生徒は暴徒化して政府の火薬庫を襲撃する事件に発展しました。

西南戦争の勃発

私学校生徒による火薬庫襲撃を聞いた西郷隆盛は、蟄居していた根占から急いで私学校に戻ると、私学校には西郷を慕う人たちが集まりました。西郷は密偵派遣の真意を新政府に尋問するため、明治10年(1877年)に私学校生徒1万3千とともに出陣し、ここに噂を聞きつけた各地の士族が集まり3万の大軍となりました。

鹿児島県鹿児島市の大口筋

大口筋

薩軍は大口筋を進軍して熊本へと向かいました。

田原坂の戦い

田原坂の戦い

西南戦争最大の激戦地となりました。

西郷軍は熊本鎮台がある熊本城を襲撃しますが、堅固であり兵糧攻めに切り替えました。本州からの援軍が迫るため田原坂で両者は激突しました。元士族を従える西郷軍は近接戦でよく戦いましたが、新政府軍は元士族で抜刀隊を編成して20日間にわたり激戦が繰り広げられました。やがて海路から新政府の援軍が挟み撃ちにして西郷軍は宮崎に落ち延びました。

西南戦争の終結

宮崎に追い詰められた西郷隆盛は、宮崎の各地で転戦して可愛岳で包囲されました。西郷は解散命令を出して、残留を志願した精鋭部隊を引き連れて九州山地を抜けて鹿児島城山に撤退しました。新政府軍は可愛岳で西郷を取り逃したため、城山では陣地を築いて包囲しました。

鹿児島県鹿児島市の西郷洞窟

西郷洞窟

西郷隆盛たちが城山に立て籠もった洞窟が残されています。

鹿児島市の西郷終焉の地

西郷終焉の地

東を向いて明治天皇を仰ぎながら別府晋介により介錯されたそうです。

新政府軍は城山に総攻撃を行い、西郷は股と腹に銃弾を受けて別府晋介の介錯により非業の死を遂げ、別府晋介や桐野利秋も壮絶な死を遂げて日本最後の内乱は終結しました。西南戦争は徴兵が士族に勝利したことを意味し、武士の世は完全に終焉を迎えることになりました。

西南戦争のあと

西郷隆盛は賊軍の将として扱われましたが、明治天皇は西郷の死を聞いて嘆いたと言われます。西郷の人柄を憂う明治天皇の意向や黒田清隆らの努力もあり、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦で西郷は正三位を追贈され、西郷の人柄を慕う人たちが上野恩賜公園に銅像を建設しました。

鹿児島市の南洲墓地

南洲墓地

西郷隆盛を中心として西南戦争の戦死者が祀られます。

鹿児島市の大久保利通像

大久保利通像

維新三傑のひとりで日本の基礎を作りましたが、明治11年(1878年)に紀尾井坂付近で暗殺されました。

西郷とともに維新三傑と称される大久保利通は、西郷の死の知らせで号泣して「おはんの死とともに新しか日本が生まれる。強か日本が」と呟いたと言われます。翌年明治11年(1878年)に馬車で皇居に向かう紀尾井坂で6人の士族に襲われて殺害されました。