熊毛郡
熊毛郡は大隅諸島の屋久島、口永良部島、種子島北部になります。近衛氏の荘園に始まり、鎌倉時代から種子島氏が治めていましたが、やがて島津氏が支配して明治時代を迎えました。九州最高峰の宮之浦岳がある屋久島は世界遺産に登録されています。
概要
- 面積
- 788.02km2
- 人口
- 24,373人(2021年11月1日)
- 含む町村
- 中種子町、南種子町、屋久島町
- 地図
特集
洋上のアルプス・屋久島
世界に類を見ない特異な生態系が育まれた屋久島は、洋上のアルプスや奇跡の島と呼ばれています。屋久島の豊かな自然は、平成5年(1993年)に世界自然遺産に登録されました。
歴史
熊毛郡は、旧石器時代から人の営みがありました。近衛家の荘園が開かれて鎌倉時代から種子島氏が領主となり、戦国時代に鉄砲が伝来しました。江戸時代に種子島氏から島津氏の所領となり、泊如竹が屋久杉を活用するよう藩に献策して松寿院が製糖や製塩などの産業を興しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代早期から前期の集落跡である千草原遺跡があり、縄文時代晩期の一陣長崎鼻貝塚からは土器片のほかクジラやウミガメの骨が発見されています。弥生時代には阿嶽の洞穴から土器が発見されています。
横峯遺跡
種子島で初めて発見された旧石器時代から縄文時代にかけて営まれた複合遺跡で、調理場と見られる礫群が発掘されました。
広田遺跡
弥生時代終末期から古代にかけて営まれた集団墓地で、日本本土と異なり古墳や墳丘墓などではなく海岸の砂丘に墓地が造られました。
古墳時代、飛鳥時代
種子島南部の野木田遺跡は古墳時代の土器や木片のほか、畔や水田区画の杭列が見つかりました。古墳時代の熊毛郡の人びとは稲作を営んで生活していました。天智2年(663年)に白村江の戦いで日本と百済が唐と新羅の連合軍に大敗すると、日本は防衛対策の一つとして火合峯と呼ばれるノロシ台が宮之浦、住吉美咲、花里に築かれました。このノロシ台は蒙古襲来や鉄砲伝来などの外国船来航で活躍したと言われます。
奈良時代、平安時代
大宝律令が成立した翌年の大宝2年(702年)に熊毛郡は多禰国となり近衛家の荘園となりました。屋久島は遣唐使船の南島路の寄港地となり、天平勝宝五年(735年)には鑑真や吉備真備の乗船も寄港しています。多禰国は平安時代前期の天長元年(824年)に廃止され、熊毛郡は大隅国に編入されました。
鎌倉時代、南北朝時代
建仁元年(1201年)に平行盛の子孫で種子島氏の祖となる肥後信基が北条時政から種子島・屋久島など南島12島を与えられ、赤尾木(現在の西之表市)に庄屋を置いて支配しました。信基は塩焚きの技能を持つ臣下2人をして西之村立石に製塩業を興し、6代種子島時充の時には製塩法や年貢法を定めて年貢を塩で納めさせました。
室町時代、安土桃山時代
12代種子島忠時は、大永4年(1524年)に南島航路上の要所である屋久島に楠川城を築き、倭寇の監視に始まり、食料等諸物資の搬入や砂鉄や木炭の移出、屋久杉の運用管理などを行いました。
禰寝合戦
13代種子島恵時・時堯父子が統治していた頃に屋久島の領有を巡り、天文11年(1543年)に大隅半島南部の禰寝氏との間で禰寝合戦が起こり、戦いで敗れた種子島氏は屋久島を禰寝氏に割譲しました。種子島氏は屋久島を奪還するため侵攻して禰寝氏を駆逐しますが、この時に初めて鉄砲を使用したとも言われます。
鉄砲伝来の地
天文12年(1543年)には、ポルトガル人が乗船した明国船が種子島最南端の前之浜に漂着して鉄砲が伝来しました。
平内海水温泉
享保14年(1729年)に建立された西村家墓の碑文には、平内の海中温泉が湯治に使われていたことが記述されています。
江戸時代
屋久の聖人と言われる泊如竹は、儒学者南浦文之の門下で豊富な学識を地域に活用して島の人たちの生活向上に尽力して丘陵地域から安定した水を供給した堀の一部が如竹堀として保存されています。23代種子島久道の夫人松寿院は文政10年(1827年)に徳之島から製糖技師を招いて種子島で初めて砂糖製造を始め、大浦川の治水工事で生まれた湿田で種子島で初めて塩田式製塩を始めました。塩田は明治27年(1894年)には拡張工事が行われ、昭和9年(1934年)に動力ポンプを使用した大塩田となり昭和初期まで操業しました。
泊如竹の墓
屋久の聖人と呼ばれて屋久杉の活用についても献策したと言われています。寛永9年(1632年)に南浦文之の漢文の読方を琉球で広めています。
松寿院の安政の川直しの碑
松寿院は安政4年(1857年)に満潮時の冠水で農作物に被害を与えていた大浦川の治水工事を完了させ、美田や湿地帯の塩田式製塩を整備しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治19年(1886年)に熊本から春木敬太郎氏と三木彦四郎氏が招かれ、馬に鋤を引かせて田畑を耕す馬耕が指導されて水稲栽培が大きく改善されました。さらに明治37年(1904年)には坂口吉助翁が満潮になると人馬の往来ができない大浦川に木製の吉助橋を架橋しました。この頃には野間に伊集院から移住した中馬友吉父子が朝鮮式の分炎式4間の野間焼窯を造り、鹿島伝衛門により発見された早崎鉱山が早崎鉱山と命名されてタングステンの採掘場となりました。
特務艦志自岐の座礁事故
大正8年(1919年)には、ボルネオのタラカンから佐世保に向かう志自岐が台風に巻き込まれて種子島沖で沈没しました。平山の人たちの懸命の捜索の甲斐もなく乗組員120人のうち7人しか生存しない事故が起きました。