首里城と琉球王国の繁栄と衰退

琉球王国は1429~1879までのおよそ450年にわたり南西諸島に存在した王国で、首里城は琉球王国の政治、経済、文化の中心となる王宮でした。尚巴志が初めて統一して琉球王国を成立させますが、尚巴志が亡くなると役人の金丸が反乱を起こして第二尚氏を興しました。
尚巴志による琉球王国の成立
10世紀に沖縄本島で稲作文化が普及して各地に村落が作られると、村落は互いに争うようになりました。12世紀頃には村落は淘汰され、大村落には按司と呼ばれるリーダーができました。按司は互いに抗争と和解を繰り返しながら次第に統合されていき、1429年に尚巴志が主要な按司を統括して統一権力を確立しました。
朝貢貿易による繁栄
中国は沖縄地方の島を琉球と呼び、琉球王国は中国に朝貢貿易を行うことで他国からの侵略を防ぎました。中国から優遇を受けた琉球王国は、貿易で得た中国製品を他国に転売ことで莫大な利益を得ました。1451年に尚金福は明の冊封使を迎い入れるため、国相の懐機に命じ長虹堤を築造しましたが、1453年に尚金福の後継者を巡り志魯・布里の乱が起こりました。

龍潭
1427年に尚巴志の命により中国出身の琉球王朝の高官・懐機が造営した人工池で、首里城から円鑑池を通して流れる天然の淡水源からの水が引かれています。

首里城
15世紀初期から内郭が建造され、16世紀に堅牢な石垣に囲まれた外郭ができました。祭祀を重んじる琉球王国の宗教上のネットワークの拠点でもありました。

首里城正殿
唐破風がある3階建の建物で、1階から政治や儀式を行う下庫裡、国王や親族や神女たちが儀式を行う大庫裡、通風を目的とした屋根裏部屋がありました。

正殿一階
首里城正殿の一階は国王自ら政治や儀式を執り行う場で、中国文化の強い影響を受けて外観のみならず内部も朱色を基調としています。
琉球神話と王家の信仰
天帝から沖縄地域に島をつくるよう命じられたアマミキヨは、ニライカナイと呼ばれる理想郷から久高島に降り立ち、沖縄の多くの島を創造して神を祈る御嶽を設けました。しかし人びとが住みつかないため、天帝はアマミキヨに2人の男女を授け、二人の間に生まれた3人の男児が国王、按司、百姓となり、2人の女児が最高神官と神官になりました。こうして繁栄した琉球王国では、王国の繁栄を願い女性が神事を行う体制となりました。

弁ケ嶽
峰全体が御神体でビンヌウタキとも呼ばれる聖地で、大小2つの御嶽があり琉球王国時代には1、5、9月の年3回国王の親祭が行われていました。

波上宮
遥か昔から海神の国ニライカナイの神に豊漁と豊穣を祈る聖地で、1368年に薩摩国坊津の一乗院より頼重法印が来琉して護国寺を建てて琉球国王の祈願所としました。

沖宮天燈山御嶽
琉球国王が那覇港で不思議に輝く古木を見つけて那覇埠頭に古木が祀られたことに始まり、尚金福王の時代である1451年に創建したとされます。

末吉宮
尚泰久王の時代の1456年頃に天界寺鶴翁和尚が熊野三所権現を勧請して創建したと伝えられる琉球八社のひとつです。
第二尚氏の統治
尚巴志が亡くなると、その子孫が短命で王権が安定しないこともあり、沖縄は内戦状態になりました。琉球王国の役人である金丸は反乱を起こして国王の尚徳を始め尚一族を殺害すると、成化6年(1470年)に尚円と名乗り琉球王国の国王になりました。こうして成立した第二尚氏は、各地に散らばる按司を首里城下に住まわせて首都の治安維持や国の政策を決める官僚の役割を与えました。各地には政府役人を派遣して按司の代わりに地方を治めさせ、各地の領地を国王の支配下に置くことに成功しました。
尚真王と琉球王国最盛期
第二尚氏3代国王の尚真王は、琉球王国を最盛期に導きました。尚真王は父の尚円王の遺骨を改葬するために玉陵を築いて第二尚氏王統の陵墓としました。玉陵に埋葬されるべき人は限られており、尚真王の母であるオギアカが玉陵碑に規定しています。

円覚寺跡
弘治10年(1497)に尚真王が京都の臨済宗僧芥隠を開山として創建した第二尚氏歴代の菩提寺でしたが、すべて沖縄戦で失われました。

玉陵
1501年に尚真王が築いた第二尚氏王統の陵墓で、玉陵の地面には邪気を払うため、神の島と呼ばれる久高島の珊瑚が敷き詰められています。

園比屋武御嶽石門
正徳14年 (1519年)に王族の礼拝所として建造され、国王が城外に出る時に道中の安全を祈願したり聖地を巡礼する行事のスタート地点となりました。
朝貢貿易による繁栄
琉球王国は朝貢貿易により独占的に得た中国品を他国に転売することで莫大な利益を得ていました。琉球王国は中国の属国として中国から信頼を得るため、沖縄三線、泡盛、琉球びんがたなどを生み出して中国の使者(冊封使)を手厚くもてなしました。

首里金城町石畳道
首里城から豊見城城を経て那覇港まで約9キロ続いていた真珠道の一部で、尚真王の治世時代である1522年に建造が始まりました。

守礼門
1527~55年の第二尚氏4代尚清王の時代に設けられた中国牌楼形式の門で、中国冊封使を迎え入れるときに守禮之邦の扁額が掲げられました。

伊江殿内庭園
伊江家は琉球王府最高の階級・王子を名乗る家の中でも特に格式の高い家柄です。伊江家の居館に設けられた庭園は中国の影響を強く受けています。

伊江御殿別邸庭園
伊江家の別邸にある庭園で、複雑な石組に囲まれた池やその池にかかる石橋など、意匠や構造、技術的にも琉球庭園独特の伝統様式が残る優美なつくりです。
琉球征伐
16世紀後半に豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役により中国との関係が悪化しました。薩摩藩は琉球王国が行う朝貢貿易の利益を得るため、慶長14年(1609年)に徳川家康の許しを得て琉球に侵攻しました。琉球王国は王家直属の軍隊のみで抵抗する力もなく、沖縄上陸からわずか10日で首里は陥落し、国王の尚寧王は拉致されました。
薩摩藩による圧政
琉球王国は270年にわたり、表向きは中国の支配下で内実は薩摩藩と徳川幕府の従属国という微妙な立場として存続しました。やがて中国が民間貿易を解禁して各国に中国製品が流れるようになると、琉球王国の中国製品の転売は利益を生まなくなりました。琉球王国では薩摩藩への徴税が重くのしかかり、一般の人びとは200年も重税に苦しめられました。

首里城
首里城の御庭は年間を通して儀式が行われました。床には磚という色違いのタイル状のものが敷かれ、諸官が位の順に建ち並ぶ目印の役目がありました。

首里城書院・鎖之間庭園
書院・鎖之間と一体をなす首里城内で唯一の本格庭園で、1715年頃に再建されたと言われます。書院に招かれた冊封使はこの庭を称える詩を詠みました。

識名園
嘉慶4年(1799年)に造営された廻遊式庭園を持つ琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。

国学・首里聖廟石垣
尚温7年(1801年)に最高学府の国学が設けられ、尚育3年(1837年)に国学に付設した聖廟(孔子廟)が建てられました。
琉球王国の滅亡
19世紀後期に欧米諸国による植民地政策が拡大すると、日本では尊王攘夷運動が活発化して慶長4年(1868年)に明治政府が成立しました。欧米に琉球王国が支配されることに危機感を感じた明治政府は、明治5年(1872年)に明治政府の直轄地として琉球藩を設置しました。明治8年(1875年)に明治政府は琉球藩の中国清への朝貢を禁止しますが、尚泰はこれに従わず朝貢を続けたため、明治12年(1879年)に尚泰は追放されて沖縄県が設置されました。

王冠
琉球国王の即位儀礼である冊封や国内儀礼の際に着用された冠で、尚家22代当主尚裕氏が那覇市歴史博物館に寄贈されたものです。

琉球王印
中国清朝の皇帝から尚質王に与えられた王印には、右側は満州文字、左側は漢字の篆書体で琉球國王之印と刻まれています。
第二次世界大戦から現在
沖縄県が設置されると、首里城は日本軍の駐屯地や各種の学校などに使われました。1930年代には大規模な修理が行われましたが、第二次世界大戦で首里城の地下壕に陸軍第32軍総司令部が置かれたこともあり、昭和20年(1945年)の米軍の攻撃により全焼しました。首里城の跡地は琉球大学が置かれましたが、平成4年(1992年)に正殿を中心とする建物が再建されて首里城公園となり、平成12年(2000年)に琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されました。

陸軍第32軍総司令部跡
昭和19年(1944年)に編成された旧日本陸軍の司令部跡で、南西諸島を守備するため首里城内に大規模な地下壕を構築して司令部を置きました。

首里城
令和元年(2019年)の失火により残念ながら首里城が焼失し400点近い美術工芸品も被害に遭いました。再建は令和7年(2025年)現在も進められています。