那覇市

那覇市は沖縄の県都として、沖縄の政治、経済、文化の中心地です。首里台地(標高165メートル)から東シナ海に面するゆるやかに傾斜した平野部を背景に古くから港が整備されるなど海外との交流拠点として繁栄し、琉球王国文化が花開きました。
概要
- 面積
- 39.98km2
- 人口
- 315,346人(2021年11月1日)
- 市の木
- フクギ
- 市の花
- ブーゲンビリア、ホウオウボク
- 市の魚
- マグロ
- 地図
特集
歴史
那覇市は洞窟を利用して太古から人が生活しており、日本で最古の人骨が発見されています。温暖な気候のため日本の平安時代まで狩猟採集の生活が続きましたが、稲作文化が浸透すると按司を中心とした大集落が造られました。按司を制圧した尚氏は琉球王国を成立させて中国との朝貢貿易で繁栄に導きますが、薩摩藩に制圧されて属国になると明治政府の成立に伴い日本に統合されました。第二次世界大戦では激戦地となり、戦後に米軍施政下に置かれましたが、日本に返還されてからは日本有数の観光地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代には山下洞人と呼ばれる人たちが生活していました。琉球石灰岩でできたアルカリ性の土壌は骨を状態良く残し、山下町第一洞穴からは旧石器のほか日本最古と言われる女児の骨などが出土しました。天久台地の北端の東シナ海に面する崖にある崎樋川貝塚があり、貝塚を使用していた人たちは近くの洞穴で生活していたと考えられています。

山下町第一洞穴
旧石器時代の洞穴遺跡で、山下洞人と名付けられた日本最古と言われる約3万2千年前の女児の人骨が発見されました。

崎樋川貝塚
天久台地の北端、東シナ海に面する崖の斜面およびその下にある貝塚で、3000年前の縄文時代のものと1500年前の古墳時代の2つの年代に分けられます。

仲島大石
那覇市内にある琉球石灰岩でできた岩で、ノッチと呼ばれる海水で浸食された跡が残されており、この場所は昔は海岸であることを示しています。
古墳時代、飛鳥時代
沖縄では稲作が普及せず、日本の平安時代まで狩猟採集の生活が行われていたと言われています。大業3年(607年)に中国隋の煬帝が朱寛を流求に遣わしたことが隋書に記されていますが、流求とは台湾を指している説が有力です。
奈良時代、平安時代
天宝12年(753年)に遣唐使船が阿児奈波島と呼ばれていた沖縄島にたどり着きました。この頃から稲作が広まり各地に集落が造られました。集落は統合されていき、大集落には按司と呼ばれる有力者が生まれました。
鎌倉時代、南北朝時代
淳熙7年(1180年)に浦添按司となる舜天が、淳熙14年(1187年)に即位して舜天王統が始まりましたが、3代義本のときに飢饉や疫病が流行り、景定元年(1260年)に英祖に王位を譲り英祖王統が始まりました。至元28年(1291年)に元の楊祥が率いる6千の兵に攻められましたが、これは失敗に終わりました。

首里城跡
14世紀のグスク時代から城がありました。尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになりました。

銘苅墓跡群
グスク時代から明治時代に続く大規模な墓跡群で、36体の風葬人骨が出土した囲込岩陰墓のほか、掘込墓や亀甲墓など29基の古墓が保存されています。
室町時代、安土桃山時代
至正10年(1350年)に民衆に推されて察度が即位して察度王統が始まります。洪武5年(1372年)に明の洪武帝が楊載を遣わして明への進貢を薦め、永楽2年(1404年)には武寧が明の冊封を受けました。やがて武寧は政務を怠るようになり、永楽4年(1406年)に尚巴志が武寧を滅ぼして、父の尚思紹を中山王として第一尚氏が始まりました。尚巴志は永楽14年(1416年)に北山王攀安知を滅ぼし、宣徳4年(1429年)南山王他魯毎を滅ぼし、三山(北山、中山、南山)統一を果たしました。
金丸による第二尚氏
成化6年(1470年)に群臣に推されて金丸が王位に就き尚円と称して第二尚氏王統が始まりました。琉球黄金時代を築いた尚真は、弘治5年(1492年)に尚家菩提寺である円覚寺を建立したほか、神女組織を形成するなど王国の基盤を確立しました。弘治13年(1500年)には八重山のオヤケアカハチを攻め滅ぼしました。しかし隆慶元年(1567年)に中国明が衰退して対外貿易を民間商人に解禁したことで、独占的な朝貢貿易による貿易収入が減少していきました。

玉陵
1501年に尚真王が築いた第二尚氏王統の陵墓で、玉陵の地面には邪気を払うため、神の島と呼ばれる久高島の珊瑚が敷き詰められています。

守礼門
1527~55年の第二尚氏4代尚清王の時代に設けられた中国牌楼形式の門で、中国冊封使を迎え入れるときに守禮之邦の扁額が掲げられました。
江戸時代
永正6年/正徳4年(1609年)に薩摩藩が兵3千で琉球へ侵攻して幕藩制支配下に組み込まれると、日中両国の外交的関係下に置かれました。薩摩藩は琉球王国から奄美を割譲して直轄地として尚寧を捕らえて薩摩へ連行しました。琉球王国は薩摩藩にも進貢することになり、その税が国民に重く圧し掛かりました。
欧米諸国の来航
嘉慶21年(1816年)にイギリス海軍のバジル・ホールが来琉して琉球王国が欧米諸国に知られるようになると、咸豊元年(1853年)にはアメリカ海軍のペリー艦隊が那覇に来航して翌年にはアメリカと琉米修好条約を締結しました。これを契機に咸豊5年(1855年)にフランスと琉仏修好条約を締結、咸豊9年(1859年)にはオランダと琉蘭修好条約を締結しています。

首里城書院・鎖之間庭園
書院・鎖之間と一体をなす首里城内で唯一の本格庭園で、1715年頃に再建されたと言われます。書院に招かれた冊封使はこの庭を称える詩を詠みました。

識名園
嘉慶4年(1799年)に造営された廻遊式庭園を持つ琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治5年(1872年)に明治政府より一方的に琉球藩が設置され、明治12年(1879年)には陸軍と警察を派遣し沖縄県が設置して県庁が置かれました。第二次世界大戦では昭和19年(1944年)に学童疎開船対馬丸が米軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて鹿児島県悪石島沖で沈没し1500人ほどが亡くなり、10月の空襲で那覇市域の9割が焼失して翌年の地上戦で多くの人命と文化遺産が失われました。
米国統治下
終戦を迎えると沖縄は米軍の統治下に置かれ、土地の強制収用により那覇市内にも那覇軍港などの米軍施設が建設されました。昭和23年(1948年)にアーニー・パイル国際劇場が建造された通りは奇跡の1マイルと呼ばれる国際通りとなり、昭和25年(1950年)には国際通りの近くに牧志公設市場が開設しました。昭和47年(1972年)に沖縄の施政権が日本に返還され改めて沖縄県が誕生しました。

国際通り
太平洋戦争で荒廃した那覇市でいち早く復興したことで奇跡の1マイルと呼ばれ、アーニー・パイル国際劇場があることから国際通りと名付けられました。

牧志公設市場
戦後の混乱期に自然発生的にできた闇市でしたが、昭和25年(1950年)に那覇市民の台所として那覇市営の市場として開設されました。