歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

福州園と中国文化交流

那覇市の福州園

那覇市久米(クニンダ)は、今から600年ほど前に福建省から閩人(びんじん)36姓と呼ばれる人びとが渡来し移住してきました。久米の人たちは外交文書の作成などを通じて王国の国際交流や交易を促進し、中国の文化や文物を導入して沖縄の政治、経済、文化の発展に大きく貢献しました。

クニンダ

琉球王国時代の那覇には久米(クニンダ)と呼ばれる地域がありました。洪武5年(1372年)に中国と冊封関係を結んだ中山王察度は、中国明に支援を求めて中国南東部の福建省から閩人36姓と呼ばれる専門家集団が現在の久米村に移住しました。この専門家集団は造船と航海技術を琉球に伝えたことで航海の安全性が向上し、やがて琉球と中国やアジア諸国の政治、経済、文化のつながりを促進し、琉球王国の外交、学問、文化を発展させました。

那覇市の松山公園の久米村発祥の碑

久米村発祥の碑

中国明から派遣された福建省の人たちがクニンダに住み、琉球王国の発展に貢献しました。

琉球王国の交易拠点である久米村は、多くの国から文化をもたらし、程順則や蔡温などの学者や鄭嘉訓や鄭元偉などの能書家を輩出しました。伝えられた文化は琉球で融合し、独自の沖縄文化として発展して現在に受け継がれました。その痕跡のひとつとして、沖縄の言葉は日本語をルーツとしながらも交易の影響を受けて独自の言語へと発展していきました。

薩摩藩の琉球侵攻

慶長14年(1609年)に薩摩藩が琉球に侵攻すると、鄭迵は薩摩藩の琉球侵攻に最後まで抵抗しました。琉球は日本と中国の狭間で生きることになり、琉球は中国に朝貢しながら17回ほど琉球使節は江戸に登城しています。久米村の人には中国に逃げる者も出て一時衰退しましたが、薩摩藩による中国と交易で久米村の人びとが活躍するようになり活気が戻りました。

那覇市の首里城の首里城北殿

首里城北殿

薩摩国島津氏の侵攻により奄美、徳之島が制圧され、薩摩国が侵攻を始めて1月ほどで首里城が制圧されました。

久米至聖廟(孔子廟)

儒教の祖で中国の思想家である孔子らを祀る霊廟として延宝4年(1676年)に久米至聖廟(孔子廟)が創建されました。久米村に生まれた程順則は中国で儒教などを学び、儒教道徳の書である六諭衍義を日本語に翻訳して薩摩藩主島津吉貴に献上しました。六諭衍義は藩校や寺子屋などで広く教えられることになります。

那覇市の久米至聖廟(孔子廟)の至聖門

至聖門

中央の扉が開くのは孔子を迎える釋奠(せきてん)の日だけです。

那覇市の久米至聖廟(孔子廟)の大成殿

大成殿

大成殿には正面に天尊廟、左に関帝廟・龍王殿、右に天妃宮があります。

程順則は、享保3年(1718年)に久米至聖廟の敷地内に沖縄で初めて学校となる明倫堂を設立しました。明倫堂では北京語や儒学、外交文書の作成など実務的な外交官僚を養成する教育を行い、優秀な人材を多く輩出しました。久米至聖廟は太平洋戦争の沖縄戦で焼失したため昭和50年(1975年)に若狭地区の天尊廟跡に再建され、平成25年(2013年)から現在の場所に移転されました。久米至聖廟は閩人36姓の子孫といわれる人達が久米崇聖会を設立して管理運営を行います。

辻遊郭

那覇の各地には中国や東南アジア諸国、日本からの商人などを琉球美人がもてなす遊郭が置かれ、そのうち沖縄県下最大の華やかな遊郭が辻遊郭でした。康煕12年(1673年)に琉球王府の宰相である羽地朝秀は各地に散在していた遊女たちを辻、中島、渡地の3か所に集め公証制度を敷き、明治41年(1908年)に中島と渡地の遊郭を吸収合併して、辻遊郭が県下一の歓楽街として栄えました。

那覇市の辻遊郭

辻遊郭の女性

辻遊郭に携わる女性たちです。

那覇市の辻遊郭開祖之墓

辻遊郭開祖之墓

辻遊郭の設立に携わった3人の墓です。

貸屋敷の女将であるアンマーは、辻村の女性(ジュリ)の抱え親として娘と同じように丁寧に扱い食事や教育を与えていました。アンマーは自分が抱えているジュリを独立させることを義務としていたため、過酷な労働を課すこともなく人間社会の義理、人情、報恩を第一として教えました。こうしてアンマーとジュリの間には親子のような信頼関係が生まれ、強制的な主従関係ではありませんでした。沖縄県で唯一の公認された辻遊郭は大いに繁栄して納付される高額な税金は沖縄県の貴重な財源となりましたが、昭和19年(1944年)の空襲で壊滅的な被害を受けて廃止されました。

琉球処分と久米村

日本が明治維新を迎えると、日本は琉球を取り込むために琉球の清との冊封関係を廃止させて明治5年(1872年)に琉球藩へと変更されました。これに対して中国清は反発しましたが、明治7年(1874年)に台湾に漂着した宮古島の漁民が殺害される事件を契機に締結された日清互換条款(北京議定書)で琉球が日本領であることが明記されました。それでも琉球藩は清国への朝貢を続けていたため、明治12年(1879年)に沖縄県として日本に帰属されました。この琉球処分やのちの日清戦争の勃発により、久米村の人びとの中には清国へと移住する者もいました。

沖縄県那覇市の旅行で訪れた観光名所、松山公園のユウナヌカー跡

ユウナヌカー跡

飲料に適した水を確保できる貴重な共同井戸で、周辺住民の貴重な水源として使われました。

那覇市の松山公園の白梅の乙女たち

白梅の乙女たち

第二高等女学校の女学生たちは太平洋戦争の沖縄戦で白梅学徒隊として日本軍に従軍しました。

琉球処分により那覇が県庁所在地になると、人口が増加していきました。周囲を海に囲まれる那覇では多くの井戸水に塩分が含まれるため水問題が深刻化し、ユウナヌカーは飲料や産湯を確保するうえで貴重な水源となりました。久米村には明治32年(1899年)に那覇尋常高等小学校、明治38年(1905年)には第二高等女学校が設立されました。太平洋戦争が勃発すると、久米村は昭和19年(1944年)のアメリカ軍の空襲により壊滅的な被害を受けました。さらに第二高等女学校の学生たちは、沖縄戦で白梅学徒隊として日本軍と共に激戦区の沖縄南部の糸満まで派遣されました。

福州園の造営

太平洋戦争の空襲や沖縄戦で焼失した久米村は、アメリカ統治下においてほとんどの敷地は外国人住宅地として利用されていました。昭和47年(1972年)に沖縄県が日本に返還されると、平成4年(1992年)には中国福建省福州市と那覇市の友好の証として友好都市締結10周年と那覇市市制70周年を記念して、福州式と呼ばれる美しい福州園が完成しました。

那覇市の福州園

二塔と東冶堂

典型的な福州の塔が2つあります。

那覇市の福州園の欧冶池

欧冶池

福州園の最大の池で中国の雰囲気があります。

福州園は総面積8千5百平方メートルあり、春景色、夏景色、秋冬景色の3つのゾーンに分かれています。福州から材料や職人を集めて一流(閩江)、二塔(白塔・鳥塔)、三山(于山、鳥山、屏山)と謳われた福州の代表的な景色や建築物が取り入れられました。

那覇市の福州園の知春亭

知春亭と凌波廊

知春亭と凌波廊から桃花渓を眺められます。

那覇市の福州園の冶山と冶亭

冶山と冶亭

福州園の一番のみどころで滝が流れ落ちます。

多くの建物は池の周りに造られています。桃花渓のほとりにある知春亭は丸い建造物で、世の中が丸く収まるようにとの願いが込められています。福州園最大の欧冶池に架かる飛虹橋には福州園の一番の見どころである冶山があり、その上にある冶亭があります。冶山からは勢いよく水が流れる滝があります。

龍柱

若狭中通りの海側にある龍柱は、那覇の港の玄関口である那覇クルーズターミナルからの中国観光客を歓迎することを目的として、平成23年(2011年)に那覇市と中国福州市の友好都市締結30年を記念して建造が始められ平成27年(2015年)に完成しました。

沖縄県那覇市の旅行で訪れた観光名所、龍柱

龍柱

龍の顔は東シナ海に向いて建てられています。

中国福建省産の花崗岩を使用した高さ15メートル、幅3メートルの龍柱は道路を挟んで2体が聳えます。龍柱が海に向けられているのは海の彼方から豊かさをもたらすと言われているニライカナイの神で、平和への希求と発展性を表わしています。