川越城跡
川越城(河越城)は入間川を越えないと到達しない河越の地にあった中世の城で室町時代に扇谷上杉氏が築城しました。交通の要衝にある重要な拠点であるため、幾度も戦火に見舞われて戦国時代は北条氏が支配しました。江戸時代になると嘉永元年(1848年)に川越藩主・松平斉典本丸御殿を造営し、東日本で唯一現存する本丸御殿になりました。平成18年(2006年)に日本百名城の一つに選ばれています。
川越城の歴史
川越城は長禄元年(1457年)に扇谷上杉氏の上杉持朝が太田道真・道灌父子に命じて築城した城です。当時は扇谷上杉氏と古河公方・足利成氏が北武蔵の覇権を争っていたため、その備えとして河越城を築城したと言われます。
天文6年(1537年)に扇谷上杉氏から山内上杉氏が分裂した隙を突いて北条氏が河越城を奪い武蔵国を治める拠点としました。危機感を抱いた両上杉氏と古河公方は河越城に侵攻しますが、天文15年(1546年)に日本三大奇襲の一つ河越夜戦で両上杉氏と足利公方の連合軍を撃退しました。
東日本で唯一残る本丸御殿です
川越城は堀で囲まれた堅固な城でした
以来、北条氏の統治が続きましたが、天文18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家の軍勢に攻められ河越城は陥落します。江戸時代になると寛永16年(1639年)に藩主松平信綱の手によって河越城は近世城郭へと大改修され、嘉永元年(1848年)には藩主松平斉典によって本丸御殿が造営されました。
現存する城郭御殿は川越城のほか、掛川城(静岡県)、二条城(京都府)、高知城(高知県)の全国で4カ所のみしかなく、貴重な文化財となっています。
河越夜戦
河越夜戦は天文15年(1546年)に北条氏康が扇谷・山内上杉氏の連合軍を破った戦いで、日本三大奇襲と言われています。北条氏中興の祖、北条早雲は相模国(現・神奈川県)を手中に収めると、跡を継いだ北条氏綱も武蔵国(現・東京都、埼玉県)に侵攻し江戸城や河越城などを攻略して関東を掌握する基盤を作ります。これに危機感を覚えたのが関東管領の扇谷上杉氏と山内上杉氏です。
関東管領は足利幕府が関東を治めるために派遣した鎌倉府の系譜にあたり、関東の実質的な行政、軍事などを掌りました。しかし、関東管領である扇谷上杉氏と山内上杉氏は仲が悪く度々交戦していたことから、その隙をついて北条氏が勢力を伸ばした構図です。
北条氏の台頭により山内上杉氏の上杉憲政は扇谷上杉氏の上杉朝定と共闘を呼びかけ、さらに鎌倉公方の系譜を継ぐ足利公方の足利晴氏も加担して連合軍が作られます。同じころ、駿河国の今川氏、甲斐国の武田氏も相まって北条氏包囲網ができあがりました。北条氏綱の跡を継いだ北条氏康は、東駿河を返還することで今川家と武田家と和睦すると、河越城を囲む8万の大軍の上杉連合軍に対して8千の兵で対峙することにします。
兵力差が大きいため北条氏康は策謀を巡らし、調略などを行いつつ天文15年(1546年)に夜襲を仕掛けます。これにより上杉朝定は討死して扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏の上杉憲政は後に本拠白井城が落とされ越後国に亡命、足利公方・足利晴氏は古河に亡命したあと義氏に家督を譲らされ相模国に幽閉されることになり、北条氏が飛躍するターニングポイントになりました。
初雁公園
川越城本丸御殿の近くに初雁公園が整備されています。初雁公園は昭和26年(1951年)に川越城本丸跡地に整備された公園で平成31年(2019年)から歴史ある遺構を守る城址公園化に向けて整備が進められています。河越城が築城される前から菅原道真を主祭神とする天神社がありましたが、河越城築城に伴い太田道真・太田道灌父子は天神社を城内の天神曲輪に祀りました。
本丸の天神曲輪跡に鎮座する三芳野神社はこの天神社のことで、藩政時代になると徳川家光もしばしば参詣したと伝えられます。寛永元年(1624年)には川越藩主・酒井忠利の子、酒井忠勝が3代将軍・徳川家光の命を受けて本丸に三芳野天神の社殿を造営しています。
徳川家ゆかりの神社です
童歌「通りゃんせ」の発祥の地です
三芳野神社は川越城内にある将軍家と関わりの深い神社のため一般の参詣はできませんでしたが、明暦2年(1656年)の川越城拡張工事で江戸城二の丸にあった東照宮を田郭門外に移築し、三芳野天神の外宮を造営したことで一般の参拝が許されるようになりました。
藩政時代に三芳野天神と呼ばれていた三芳野神社は、天神様(菅原道真)が祀られていることから参道が「天神さまの細道」と呼ばれていました。これが童歌「通りゃんせ」にある天神様の細道であり、童歌発祥の地となりました。
川越城の遺構
現在の川越城は最盛期に比べるとかなり縮小されていますが、本丸御殿以外にも様々な遺構を見つけることができます。川越城には天守はありませんでしたが、富士見櫓が天守閣代わりとして見張りや防戦の足場として使われていました。跡地内には、御嶽神社、富士浅間神社、富士見稲荷神社が祀られています。
天守閣の代わりとして櫓がありました
曲輪をつなぐところに門がありました
富士見櫓の近くは堀、石垣、土塁で区切られた曲輪が設置されており、その曲輪の出入口を仕切るところに田曲輪門が設置されていました。これ以外にも堀跡など今でも遺構が残されているところがあります。
川越城の七不思議
初雁公園には川越城の七不思議の解説がありました。
- 初雁の杉
- 毎年必ずこの杉の上で北の空から飛んできた初雁が三声鳴きながら、三度旋回し、南の方へ飛び去るため川越城は「初雁城」と呼ばれるようになりました。
- 霧吹きの井戸
- 川越城の井戸は敵に攻められたときに井戸のふたを取ると井戸の中より霧が吹きだし濃霧で城を隠してしまいました。敵が仕方なく引き上げていくと元どおり眺めの良い城になったことから川越城は「霧隠城」とも呼ばれました。
- 人身御供
- 川越城の回りは沼が多く「七ッ釜」といわれ城を築くのが困難な土地でした。太田道真、道灌の父子は土塁がなかなか出来ず困っていると、ある夜、道真の枕元に龍神が現れて「明朝、一番早く汝のもとに現れた者を人身御供として我にさし出せば築城は成就するだろう」と告げました。翌朝一番最初に現れたのは自分の娘で、娘にお告げの話をすると娘も「私も同じ夢を見た」と言い、沼に身を投げて龍神様に身を捧げました。この尊い犠牲があり川越城は完成しました。
- 片葉の葦
- 川越城に住んでいた姫様は戦いに破れて城を落ち延びるとき、七ッ釜といわれる葦のたくさん生えている沼地のひとつに落ちてしまい、姫様は近くの葦の葉にしがみつき這い上がろうとしましたが、葦の葉はちぎれ片葉を掴んだまま哀れな最期を遂げました。それ以来七ッ釜あたりに生い茂る葦はすべて片葉の葦になりました。
- よな川の小石供養
- 川越の名家におよねという気だての優しい美しい娘がおり武士の家へ嫁ぎましたが、夫が登城すると姑につらく当たられる日々を過ごしていました。ある日、およねが殿様より拝領した大切な皿を誤って一枚割ってしまい、およねは小川に身を投げてしまいました。悲しむ夫は毎日小川へ行って名前を呼び続けると川底から泡が浮かびおよねが返事をするように聞こえるので、ついに夫も小川に身を投げてしまいました。この小川では二人を哀れんで小石を投げると川底から無数の泡が浮いくることから「およね川」と呼ばれるようになり「夜奈川」や「遊女川」と書いて「よな川」と呼ぶようになりました。
- 天神洗足の井水
- 太田道真、道灌の父子が川越城の堀に水を貯めるため水源を探していると、初雁の杉あたりで清水が湧き出ることを見つけました。老人に話をすると老人は満々に水をたたえた水源地に案内してくれました。老人は三芳野天神様の化身であることがわかり、その井水を「天神洗足の井水」と名付けました。この水源地は城内の清水御門のあたりとも八幡曲輪や三芳野神社付近ともいわれています。
- 城中蹄の音
- 川越城では夜が更けると毎夜城中にどこからともなく矢叫びや蹄の音がけたたましく聞こえました。易者に占ってもらと城内にある戦の図が災いしていることが分かり、宝物庫から堀川夜討の大戦の屏風画が一双見つかり、その半双を養寿院に寄進して怪異は収まりました。この屏風画は今も養寿院の秘蔵として残ります。
まち旅(旅行、観光)の記録
まち旅(旅行、観光)するために参考となる情報です。
- 住所
- 〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目13−番地
- アクセス
- 東武東上線・JR川越駅、西武新宿線「本川越駅」から徒歩15分
- 営業時間
- 9:00~17:00
- 料金
- 100円
- 地図