歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

アミアン

フランス共和国・アミアンのアミアン大聖堂

フランス北部にあるアミアンはソンム県の県庁所在地です。古くから北のヴェネチアと呼ばれ、ピカルディ地域圏の中心として栄えました。温暖で過ごしやすい気候は酪農や畑作の産業を盛んにしています。アミアンのノートルダム大聖堂は1981年に人類の創造的才能を表現する建物として、1998年にサンディアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の一部として世界遺産に2回登録されています。

概要

面積
49.46km2
標高
33m
人口
13.29万 (2015年)
地図

歴史

アミアンは運河に囲まれた水郷地帯にあり北のヴェネチアと呼ばれました。藍による植物性染料により財を得て世界遺産に登録されるノートルダム大聖堂再建事業の資金となりました。アミアンのノートルダム大聖堂はゴシック建築の傑作と謳われるフランス最大のカトリック教会となりました。

ローマ支配とヴァイキングの侵攻

ローマ支配以前のアミアンは、ガリア系アムビアニ人によりサマロブリヴァと呼ばる町が築かれてました。アミアンはローマ人から4世紀以降にアムビアニ人に由来してアミアンと名付けました。3世紀末から聖フィルマンがアミアンで宣教を行いキリスト教が伝来し、367年にローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世は海上防衛システムを構築するためアミアンに赴き368年にソリキニウムの戦いで勝利しました。5世紀にメロヴィング朝フランク王国の初代国王となるクロ―ヴィス1世がアミアンに侵攻してフランク王国の支配下となりました。

フランス・アミアン市街

アミアン市街

ローマ人が支配下に置く4世紀以降に先住民アムビアニ人に由来してアミアンと名付けました。

フランス・アミアン郊外

アミアン郊外

859年にヴァイキングが襲撃を始め、882年にはヴァイキングにより制圧されるなど脅威にさらされました。

自治体からフランス王領

1095年からアミアンは地方自治体としており、1113年にアミアン司教の同意を受けてからフランス王が追認する形で対外的にも認められました。アミアン領主アンゲラン1世はアミアンの自治体の組織を認めず1115年にジョフロワ司教やアミアン住民が反乱を起こしました。1185年にアミアンは再びフランス王領に統合され、1264年にルイ9世はヘンリー3世と彼の臣下たちとの間で起きたバロン戦争の仲裁を行いました。1435年にアラスの和約が締結されたことでアミアンはシャルル7世からブルゴーニュ公国フィリップ3世(善良公)に与えられますが、1477年にブルゴーニュ伯シャルル(突進公)がナンシーの戦いで戦死すると、ルイ11世がブルゴーニュに侵攻してアミアンを獲得しました。ブルゴーニュ伯シャルルの一人娘マリーは、フランスの圧力に耐えかねてオーストリア大公マクシミリアンと結婚してブルゴーニュ伯領はハプスブルグ家が手に入れることになります。

ルイ6世

ルイ6世

肥満王と呼ばれたフランス王で、住民らはルイ6世を支持して巨大な塔を攻略するために投石器を用いるなど4年にも渡り大規模な戦闘を繰り広げました。

ルイ11世

シャルル7世

百年戦争を終わらせて勝利王と呼ばれたフランス王で、アラスの和約でアミアンはブルゴーニュ公国フィリップ3世(善良公)に与えられました。

アミアンのノートルダム大聖堂

アミアンのノートルダム大聖堂は、アミアンにおける我らが貴婦人の大聖堂という意味でアミアン大聖堂と略称されます。ゴシック建築の傑作と言われるフランス最大のカトリック教会で、エブラール・ド・ワイヨワ司教とその後を継いだジェフロワ・ドゥ司教により建築されました。1206年に洗礼者ヨハネの頭蓋骨がアミアンに届き、ノートルダム大聖堂の前身であるロマネスク様式の教会に安置されました。1218年に落雷による火災で司教座の公文書庫が全焼し、さらにヴァイキングの襲来で破壊されたため、1220年にエブラール司教の命により建築家ロベール・ド・リュザルシュがノートルダム大聖堂の建築工事を開始しました。残念ながら工事から2年後にエブラール司教は亡くなりますが、ジェフロワ・ドゥ司教が大聖堂建築を引継ぎ1288年には塔以外の主要な部分が完成しました。

フランス・アミアンのノートルダム大聖堂

ノートルダム大聖堂

彫刻群や建設工法がその後のゴシック建築に大きな影響を与えたフランス最大の大聖堂で、ゴシック建築の傑作と言われます。

フランス・アミアンのノートルダム大聖堂

ノートルダム大聖堂

1789年のフランス革命で襲われました。アミアン大聖堂でも絵画が持ち去られ彫像が破壊されましたが、建物は小さな損傷に留まりました。

フランス・アミアンのノートルダム大聖堂

ノートルダム大聖堂

全長145メートル、身廊内の天井の高さは42メートルもあり、聖堂の内外には彫刻が飾られて二人の司教が教会に埋葬されています。

フランス・アミアンのノートルダム大聖堂

ノートルダム大聖堂

聖堂西正面の扉口周辺を飾る彫刻群は、キリスト教の歴史や聖人伝などを表現していることから石の百科全書と呼ばれます。

染料業による発展

フランドル地方はヨーロッパ最大の毛織物の産地で、アミアンは染色業で繁栄していました。特に12世紀から13世紀には藍を原料とする青色の植物性染料がヨーロッパで人気となり、アミアンの染料商人は多くの富を得ました。莫大な富を得た染料商人はその一部を寄付して大聖堂再建事業の資金に役立てられました。ブルゴーニュ公の下で繁栄したアミアンでしたが、1477年にブルゴーニュ公シャルル豪胆公が戦死するとアミアンはフランス王国へ復帰することになりました。

ルイ11世

ルイ11世

慎重王と呼ばれたフランス王で慎重深い人物でした。ブルゴーニュ公の戦死に伴い、1477年にアミアンを獲得しました。

フランス・アミアン市街

アミアン市街

染料業で莫大な富を得て繁栄し、ルイ11世はブルゴーニュ公国のアントウェルペンブリュージュとに負けないようにアミアンで年2回の市を承認しました。

ユグノー戦争

1562年に新旧教派の衝突を契機に起きた宗教内乱ユグノー戦争は、フランス国王アンリ3世、旧教派のギーズ公アンリ、新教派のブルボン家アンリの3人のアンリの戦いに発展しました。ギーズ公アンリは1588年パリに強制入城して国王を追い出しますが、国王アンリ3世がギーズ公アンリをブロワ城内で暗殺したため、国王アンリ3世もこれに反発したパリの旧教徒により暗殺されました。こうしてブルボン家アンリがアンリ4世として即位することになりますが、新教徒の国王を認めないカトリック同盟は別に国王を立てフランスは二分されることになります。

スペインとの戦争

スペイン軍に包囲されたアミアンは城門を固く閉ざしていましたが、スペイン軍フエンテス公の兵士たちは農民に変装してクルミやリンゴを運び込む素振りを見せたため、飢えに苦しむアミアン住民は城門を開けてスペイン軍を入れ込み制圧されていました。アンリ4世は1995年にスペイン軍との衝突を機にスペインに宣戦布告してブルターニュ平定を行います。1597年に半年に渡る包囲戦の末にアミアンはフランス王国に奪還されました。

アンリ3世の暗殺

アンリ3世の暗殺

ギーズ公アンリを暗殺したため、報復としてパリの旧教徒たちに暗殺されました。

フランス・アミアンのアンリ4世

アンリ4世

ユグノー戦争を終わらせブルゴーニュを平定しました。アミアンはスペイン=ハプスブルク家からフランスに奪還されました。

アミアンの発展とドイツの占領

1798年にナポレオンがエジプト遠征を行うと、イギリスとの関係が悪化して第二次対仏大同盟が結成されました。フランスはエジプトを支配できませんでしたが、同盟軍オーストリアに勝利したことで形勢が変わりました。1802年にイギリスはフランスとの共存を図ることに転じてアミアンの和約に署名して第二次対仏大同盟に終止符を打ちました。19世紀になるとアミアンは近代化により産業が発展して拡大して市内中心部を取り囲む城壁は解体されて広い大通りが整備されました。

ドイツの占領から現在

アミアンには1848年にブローニュ=シュル=メールとアミアンを結ぶ最初の鉄道が敷設され、このときに城壁に隣接する古い時代の堀は鉄道建設の資材となりました。1870年に普仏戦争が起こるとプロイセン軍によりアミアンが征服され、1914年に勃発した第一次世界大戦では1915年や1918年にアミアンは戦場となりドイツ帝国による激しい砲撃にさらされ大聖堂にも何発か被弾しました。1939年に始まる第二次世界大戦では1940年にナチス・ドイツが町を破壊して壊滅的な被害を出し、1944年にも連合国の空爆を受けました。