ハプスブルク家の栄華と繁栄
ウィーンに本拠地を置いたハプスブルク家は、ウィーン市街に豪華な宮殿を建てて生活を送りました。歴史的に有名な女帝マリア・テレジア、皇帝フランツ・ヨーゼフ、皇妃エリザベートや皇女マリーアントワネットなどはホーフブルク王宮で生活をしてシェーンブルン宮殿を夏の宮殿としました。
ホーフブルク王宮
ウィーンを拠点としたハプスブルク家は、13世紀後半から1918年までホーフブルク王宮を住居としました。シェーンブルン宮殿が夏の離宮に対して冬の王宮と言われました。
ホーフブルク王宮
シェーンブルン宮殿よりも多い2500室以上あります。現在は王宮の内部は大統領官邸があり、図書館やミュージアムが一般に開放されています。
スペイン乗馬学校
スペイン乗馬学校はハプスブルク家がスペイン王室を兼ねていたことで、スペインから馬を輸入していたことから古典馬術の最高技術を教える学校ができました。
シュテファン大聖堂
ハプスブルク家ルドルフ4世は、オーストリア公を受け継いだ1359年から65年かけて、シュテファン大聖堂を現在のゴシック様式の大教会に建替えました。高さ137メートルの南塔はウルム大聖堂やケルン大聖堂に次いで教会建築として3番目の高さを誇ります。地下墓地(カタコンベ)には17世紀のペスト犠牲者約2千人のほか、歴代皇帝の内臓が収められました。
第二次世界大戦と大聖堂
17世紀のオスマン帝国による包囲戦で被害を受けますが、オスマン帝国が残した大砲などの武器を溶かし鋳造した大きな鐘プムメリンが製造されて北塔に取り付けられました。また、第二次世界大戦のウィーン攻防戦で大きな被害を受けましたが、オーストリア国民が協力して寄付を集めて1948年に復活しました。
シュテファン大聖堂
屋根は23万個に及ぶカラフルなタイルで覆われて複雑な幾何学模様が描かれているのが特徴です。
シュテファン大聖堂
ウィーン最古で最大のゴシック様式の教会でウィーンのシンボル的な存在です。市民から親しみを込めてシュテッフルと呼ばれています。
シュテファン大聖堂
内部は長さ107メートル、高さ39メートルの身廊があり、主祭壇の南側にはフリードリヒ3世の棺、黒い十字架の礼拝堂にはオイゲン公が安置されています。
シュテファン大聖堂
塔には343段の階段が取り付けられ、屋上からウィーン市街を眺めることができます。
シェーンブルン宮殿
1569年にマクシミリアン2世が狩猟地として購入した土地は、1619年に皇帝マティアスが狩猟で泉を発見したことで美しい泉を意味するシェーンブルンと名付けられました。シェーンブルンには1643年に皇帝フェルディナント2世は妻エレオノーラ・ゴンザーガのために宮殿が建てられましたが、1683年にオスマン帝国による第2次ウィーン包囲で被害を受けたため、1695年にレオポルド1世がヴェルサイユ宮殿に対抗してフィッシャー・フォン・エアラッハに設計を依頼してバロック様式のシェーンブルン宮殿を建てました。
マリアテレジア・イエロー
女帝マリア・テレジアは居城をシェーンブルン宮殿に決めて、当時ピンク色の壁をイエローに塗り替えて内装をロココ様式に統一するなどの増改築を行いました。外壁は財政事情から黄金に近い黄色に塗り替えられましたが、この色はマリアテレジア・イエローと呼ばれます。マリア・テレジアの長男のヨーゼフ2世は、ハプスブルク家ゆかりの建造物をこの色で塗ることを決め、オーストリアとハンガリーの国家的建造物はマリアテレジア・イエローで統一されています。
シェーンブルン宮殿
1400以上の部屋の多くはロココ様式です。女帝マリア・テレジアや皇妃エリザベートなどが暮らした部屋や6歳のモーツァルトが演奏をした鏡の間が残されています。
シェーンブルン宮殿
泉が発見されたことから美しい泉を意味するシェーンブルンと名付けられました。シェーンブルン宮殿はハプスブルグ家の夏の離宮となりました。
シェーンブルン庭園
約160ヘクタールの広大な庭園で、庭園は幾何学的配置のフランス式庭園が採用され、花で彩色された庭園は噴水などの景観と見事に調和しています。
グロリエッテ
広大な庭園の奥には戦勝記念堂と言われる凱旋門があり、その手前に見事な彫刻が施されるネプチューンの泉があります。
カプツィーナ教会
1617年に神聖ローマ皇帝マティアスの皇后アンナは墓所についてカプツィーナ派の修道院に相談し、教会や修道院の設立、墓所の建設を進めるための資金を提供しました。アンナは翌年の1618年に亡くなりますが、提供された資金を基に墓地の建設が進められ、1632年に教会は完成して翌年にアンナの亡骸がカプツィーナ教会に移されました。それ以来、カプツィーナ教会はハプスブルク家の墓所となりました。
カプチーノの起源
1683年にオスマン帝国がウィーンを包囲したとき、カプチーナ派の神父マルコ・ダビアーノがヨーロッパ諸国の兵士達を一致団結させてオスマン帝国軍を退け、この時にオスマン帝国が残したコーヒー豆を煮出してみたところ味が苦すぎたため、クリームとハチミツを足して飲みやすくしたものがカプチーノの起源だという説があります。
アンナ・フォン・ティロル
神聖ローマ皇帝マティアスの皇后で、カプツィーナ教会や修道院の設立ほか、自身の墓所建設のための資金を提供しました。
フェルディナント2世
アンナの遺志を継いだフェルディナント2世により工事が進められ、三十年戦争で工事は遅れましたが、カプツィーナ教会は1632年に完成しました。
カプツィーナ教会
カプツィーナ教会は茶色の外観が特徴的で飲み物のカプチーノはこの教会の外壁の色から来ていると言われます。
カプツィーナ教会
主祭壇にはキリストに膝まづく聖母マリアのフレスコ画が掲げられ、右側の礼拝堂にはウィーン包囲戦で活躍した聖職者マルコ・ダビアーノの棺が安置されています。
マリア・テレジアの棺
マリア・テレジアは1780年に亡くなると、夫フランツ・シュテファンと同じ棺に葬られました。棺は天井から注ぐ太陽の光が当たるように設計されています。
フランツ・ヨーゼフの棺
納骨堂にはハプスブルク家の皇帝、皇后、子孫らの149名の棺が納められ、フランツ・ヨーゼフ、エリザベートなど歴史に名を残した皇族の棺も安置されています。
ペスト被害
17世紀にヨーロッパを席巻したペスト感染症は、1679年にウィーンを襲い10万人以上が亡くなりました。カトリック教会の神父は、ペストが起きたのはプロテスタントを信じたことで神の怒りに触れたとかユダヤ人が井戸に毒を入れたと教えることもありました。皇帝レオポルト1世はペストが終息した暁には木柱のペスト記念碑を石造りに変更することを約束して神に祈りを捧げたと言います。
レオポルドの泉
1679年にペスト(黒死病)がウィーンを襲い10万人以上が亡くなりました。皇帝レオポルド1世は神に祈りを捧げてペスト終息を願いました。
三位一体記念碑
多くのペスト犠牲者の鎮魂とペストに勝利したことを記念して1693年にレオポルト1世により建てられました。
神聖ローマ帝国の解体
神聖ローマ皇帝フランツ2世は1805年にナポレオンとアウストレリッツで戦いますが破れました。これによりナポレオンはライン同盟を成立させて神聖ローマ帝国は解体されました。神聖ローマ皇帝フランツ2世は廃位されオーストリア皇帝フランツ1世となりました。1848年にオーストリア皇帝に即位したフランツ・ヨーゼフ1世は、ウィーン都市大改造計画の一環としてブルク劇場を移転して、その跡地にミヒャエル宮を建設しました。
ミヒャエル宮
ネオバロック様式の建造物でホーフブルク王宮に隣接します。
エリザベート
フランツ・ヨーゼフ1世の妃でシシィの愛称で親しまれます。ウィーンから逃避し続け1898年にジュネーヴのレマン湖のほとりでイタリア人ルイジ・ルケーニに刺殺されました。