ウィーン
ウィーンはオーストリア東部にある首都でドナウ川のほとりに位置しています。ハプスブルク家が本拠としてホーフブルク王宮やシェーンブルン宮殿など帝国時代の繁栄が残される美しい都市です。モーツァルト、ベートーベン、フロイトなどが活動した芸術的にも文化的にも名高く音楽の都と称されます。
概要
- 面積
- 414.6km2
- 標高
- 151 – 542m
- 人口
- 189.7万 (2019年)
- 地図
特集
歴史
ウィーンはローマ時代にウィンドボナと呼ばれたことに由来します。中世ヨーロッパで最大勢力を誇るハプスブルク家が本拠地として文化や芸術が花開く町になりました。産業革命により人口が増えると城壁を取り壊して再開発され、現在の町並みになりました。2001年にウィーン歴史地区として世界遺産に認定されました。
ウィーンの成り立ち
オーストリアの首都ウィーンは、紀元前3世紀にケルト人が居住していました。紀元前2世紀後半にローマによるガリア遠征でケルト人を追い出してドナウ川をローマが国境としました。ドナウ川南部を支配下に置いたローマは、他国の侵略を防ぐためドナウ川中流にウィンドボナと呼ばれる宿営地を置きました。このウィンドボナがウィーンの語源と言われます。
オストマルク辺境伯
ローマ帝国が滅亡してウィンドボナにアヴァール人が侵攻すると、8世紀末にフランク王国カール大帝がアヴァール人を追い出してオストマルク辺境伯を置きました。9世紀末には侵攻したハンガリー人を東フランク王国オットー1世が追い出して神聖ローマ帝国の初代皇帝となると、その跡を継いだオットー2世が976年にバーベンベルク家レオポルドをオストマルク辺境伯に任命しました。このオストマルクがオーストリアの語源と言われます。
ウィーン市街
ドナウ川の南部にある盆地に町ができました。
カール大帝
カール大帝がオストマルク辺境伯を置きました。
ハプスブルグ家の統治の始まり
1246年にバーベンベルク家フリードリヒ2世がマジャール人との戦いで戦死すると、バーベンベルク家が断絶して領主が不在の期間ができました。その混乱に乗じて1251年にボヘミア王オタカル2世がウィーンに入りオーストリアを支配するようになります。
マイヒフェルトの戦い
ハプスブルク家ルドルフ1世は、スイス・バーゼル近郊のハービヒツブルグを拠点とする小領主で、所領ハービヒツブルグが訛りハプスブルクと名乗りました。神聖ローマ皇帝は1254年から大空位時代が続いていましたが、1273年に選帝侯たちは自分たちの権勢維持に支障が無い飾りの皇帝としてルドルフ1世を神聖ローマ皇帝に選出しました。ボヘミア王オタカル2世はルドルフ1世を皇帝と認めず1278年にマイヒフェルトの戦いで両者は激突しました。この戦いでオタカル2世は戦死してハプスブルグ家がウィーンを所領に組み込み本拠地としました。
ルドルフ1世
ハプスブルク家の始祖と言われ、神聖ローマ帝国皇帝になりました。
シュテファン大聖堂
12世紀半ばに建造されたウィーンのシンボルです。
ペーター教会
11世紀に建造されたウィーンで2番目に古い教会で、ルーカス・フォン・ヒルデブラントが設計して1701年から1733年に改築したバロック様式の教会です。
ウィーンへの遷都
ハプスブルク家は急速に力を得ますが、本国スイスでは圧政に耐えかねて各地で内乱が起こりました。1291年にスイスの3つの領邦は盟約者同盟を結び、独自の支配体制を整備しました。スイス盟約者同盟は団結してハプスブルク家と争い、ハプスブルグ家は次第にスイスでの力を失い追い出されました。このときにスイスの団結力を高めた英雄がウイリアム・テルです。
ウイリアム・テル
スイス領民はハプスブルク家の悪代官ゲスラーから自分の帽子に対して挨拶するよう強要しました。ウイリアム・テルはこれに従わずに捕らえられ、罰として息子の頭に乗せたリンゴを射貫くように命じられます。ウイリアム・テルは見事に矢を射抜きますが、矢をもう1本隠していたことを咎められると逃走して影からゲスラーを射殺しました。スイスの人たちはウイリアム・テルを英雄として迎え入れ、スイス独立に向けて結束を高めました。
ウイリアム・テル
スイス建国にまつわる伝説の英雄で、息子の頭に乗せたリンゴを射抜いた伝承が残ります。
オーストリア公レオポルド
モルガルテンの戦いでスイス農民兵に大敗しました。こうしてハプスブルグ家はスイスから追放されてオーストリアを拠点としました。
ハプスブルク家の繁栄
ハプスブルク家は「幸いなるオーストリアよ。戦いは他のものに任せるがよい。汝、結婚せよ。」という家訓で繁栄しました。中世最後の騎士と呼ばれるマクシミリアン1世は、この家訓どおり婚姻政策により領地を広げました。1493年に神聖ローマ帝国皇帝に就いてハンガリーやボヘミアも版図に組み入れると、さらにフランスの脅威にさらされていたヨーロッパで最も豊かなブルゴーニュ公国の公女マリーと結婚してブルゴーニュ公国を相続しました。
スペイン=ハプスブルク家
カスティーリャ女王イザベルとアラゴン国王フェルナンドの娘フアナは、マクシミリアン1世の長男フェリッペと結婚しました。フアナは父のアラゴン王国と母のカスティーリャ王国を継承してスペインの女王となりますが、スペインはフェリッペとフアナの子カール5世が継承したためハプスブルク家の支配下になりました。この頃は大航海時代の訪れにより中南米やアジア諸国から巨万の富を得ましたが、版図が広がりすぎたためオーストリア系とスペイン系に領地を分割して統治することになりました。
マクシミリアン1世とマリー
マクシミリアン1世はブルゴーニュ公女マリーと婚姻したことで、裕福なブルゴーニュ公国を手に入れることができました。
カール5世
スペインもハプスブルグ家が抑えてヨーロッパ最大の勢力を有しました。
オスマン帝国の侵攻
スペインは1700年にハプスブルク家カルロス2世が没して断絶してスペイン継承争いの末にフランス・ブルボン王朝へと移り変わりました。オーストリア系ハプスブルク家は神聖ローマ帝国皇帝を継承しますが、17世紀前半の宗教戦争である三十年戦争で疲弊しました。そこにオスマン帝国は大宰相カラ=ムスタファが1683年にウィーンを包囲しました。オスマン帝国によるウィーン包囲は1529年のスレイマン1世に続いて2回目でした。オーストリアは劣勢でしたが、ポーランド王のヤン=ソビエスキとロートリンゲン公カールの援軍によりオスマン帝国を撃退してハンガリーの支配を独占することに成功しました。
ハプスブルク家の衰退
男児に恵まれないカール6世は1740年に娘のマリア・テレジアを女帝として即位させます。夫であるフランツ・シュテファン・ロートリンゲン公が神聖ローマ帝国皇帝にフランツ1世として即位します。ふたりの間に生まれた末娘マリーアントワネットはフランス・ルイ16世に嫁いで、オーストリア最大のライバルであるフリードリッヒ2世率いるプロイセンに対抗しました。マリーアントワネットは1789年のフランス革命で捕らえられてルイ16世と共に処刑されて絶対王政に陰りが見え始めます。
音楽の都
ザルツブルク出身の音楽家モーツァルトはウィーンに拠点を移して1782年にシュテファン大聖堂で結婚式を執り行いました。晩年の1791年にシュテファン大聖堂の副楽長に任命され、ウィーンで生涯を閉じました。ウィーン屈指の音楽家ベートーヴェンは、ウィーンで活動を続けましたが、シュテファン大聖堂の鐘の音も聞こえない難聴となりました。
マリア・テレジア
18世紀中期のオーストリア大公妃です。
モーツァルト
シュテファン大聖堂の副楽長になり、宗教曲として人気が高いアヴェ・ヴェルム・コルプスやレクイエムを作曲して35歳で生涯を閉じています。
ベートーヴェン
モーツァルトから指導を受けるため16歳でウィーンに滞在しましたが母の危篤を受けてすぐに帰国し、のちにハイドンに弟子入りする形でウィーンに留学します。
神聖ローマ帝国の解体
神聖ローマ帝国は16世紀の宗教改革や17世紀の領邦国家の独立性の高まりにより存在が形骸化し、1806年にナポレオンにより解体されました。フランツ2世は神聖ローマ帝国皇帝を退位してオーストリア皇帝フランツ1世となり、娘マリー・ルイーズをナポレオンに嫁がせました。ほどなくしてナポレオンは失脚してヨーロッパの秩序回復のため1815年にウィーン会議が開催されました。この会議でドイツ連邦が成立して神聖ローマ帝国は再生されずに終焉を迎えました。
ハプスブルク体制の崩壊
オーストリア皇帝は、フランツ1世の子フランツ・カールの長男フランツ・ヨーゼフ1世が1848年に即位しました。妃はシシィの愛称で親しまれるバイエルンのヴィステル・バッハ家エリザベートを迎えています。この頃のオーストリアは1867年にオーストリアとハンガリーを同等の二重帝国として何とか維持している状態でした。しかし1867年にメキシコ皇帝の弟マクシミリアンが民族主義者により処刑され、1889年には長男ルドルフ皇太子が謎の死を遂げ、妻エリザベートも1898年に旅行先のジュネーブで暗殺される不幸が続きました。
第一次世界大戦
フランツ・ヨーゼフ1世は後継者としてフランツ・フェルディナンドを定めていましたが、1914年にサラエボで暗殺されました。これを受けて、ドイツ・オーストリア同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした三国協商との間で1918年に第一次世界大戦が勃発しました。
フランツ・ヨーゼフ1世
現在のウィーンの町並みを作りました。
エリザベート
シシィの愛称で親しまれる人気ある王妃です。
帝国議事堂
オーストリアの国会議事堂です。
ウィーン国立劇場
世界最高峰のオペラ座と言われます。
オーストリア共和国の成立
第一次世界大戦でオーストリアは敗れてハプスブルク体制は解体されチェコ、ハンガリー、ポーランドが独立して南チロルもイタリアに割譲されたためオーストリアは面積と人口が4分の1まで減少しました。オーストリア共和国が成立して1919年のハプスブルク法によりハプスブルク家の王朝的な特権は放棄されました。第二次世界大戦の1938年から1945年までナチス・ドイツによりオーストリアは併合されますが、1955年に連合国と国家条約締結により独立を回復して永世中立を宣言しました。