ウィーン大改造計画
音楽と芸術に彩られたウィーンは、ハプスブルク家フランツ・ヨーゼフ1世による帝都ウィーン大改造計画により生み出されました。19世紀の産業革命により鉄道網が発達して人口が増加したため、ウィーンは再整備されました。第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが、見事に復興されて街全体が建築の博物館と呼ばれています。
ウィーンと産業革命
18世紀後半にイギリスで起きた産業革命の波がオーストリアにも伝わり、1837年に蒸気機関車の鉄道がウィーンに開設されました。1840年代の産業革命の波は、経済や産業の発展に伴い1848年の三月革命(ウィーン革命)に発展しました。帝国宰相メッテルニヒが失脚して絶対王政を維持するウィーン体制が崩壊すると、フェルディナント1世は退位してフランツ・ヨーゼフ1世が即位しました。
ゼメリング鉄道
1854年にウィーンからトリエステまで世界で初めてアルプス山脈を越えて開通し、鉄道として初めて世界遺産に登録されました。
ウィーン市街
1840年代にウィーンに押し寄せてきた産業革命の波は、急速にウィーンの経済や産業を発展させていきました。
ウィーン大改造計画
ウィーンはオスマン帝国の侵攻を食い止めるヨーロッパ最前線の都市として、中世までは城壁で守れていました。産業革命と鉄道の発達で経済の発展は目覚ましくウィーンの人口は増加を続けていました。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、1857年に城塞撤去と都市開発の勅令を出して帝都ウィーンの大改造計画に取り掛かりました。ウィーンを取り囲んでいた城壁は取り壊され、その跡地には旧市街を取り囲むようにリングシュトラーセ(環状道路)が1865年に開通しました。リングシュトラーセの周囲にはウィーン国立劇場の前身である王立宮廷歌劇場やウィーン市庁舎などの公共施設が建造されました。
フランツ・ヨーゼフ1世
オーストリア皇帝で、1857年に城塞撤去と都市開発の勅令を出して帝都ウィーンの大改造計画に取り掛かりました。
ブルク劇場
1858年にウィーンを取り囲んでいた城壁が取り壊され、その跡地には旧市街を取り囲むようにリングシュトラーセ(環状道路)が1865年に開通しました。
ウィーン国立劇場
ウィーン大改造計画により最初に建造されたのが王立宮廷歌劇場でした。王立宮廷歌劇場は16世紀ルネサンス様式をモデルにしたネオルネサンス様式の建物で、1865年にこけら落としとしてオーストリアの象徴であるモーツァルトのドン・ジョヴァンニが上演されました。劇場内にはウィーンを代表する芸術家たちの絵画や彫刻などが展示されていましたが、第二次世界大戦により正面と吹き抜けを除いた大部分が被害を受けました。専属オーケストラであるウィーン国立劇場管弦楽団は、世界一とも言われるオーケストラで日本を代表する指揮者・小澤征爾氏は2010年まで音楽監督を務めています。
ウィーン国立劇場
戦後の修復では建造当初の姿に修復され、現在では世界最高峰のオペラ座であるウィーン国立劇場として機能しています。
ウィーン国立劇場
国立劇場の目の前では、バッハカットの人たちがオペラ鑑賞の勧誘活動していました。
リングシュトラーセの景観
リングシュトラーセには、1879年にフォティーフ教会、1883年に帝国議事堂とウィーン市庁舎、1885年にウィーン大学、1888年にブルク劇場、1891年にウィーン美術史美術館と相次いで建造されリングシュトラーセの景観を形成していきました。これらの建築は歴史主義様式が採用され、帝国議事堂はヘレニズム様式、ウィーン市庁舎はゴシック様式、ウィーン大学はルネサンス様式、ブルク劇場はバロック様式が採用されています。
帝国議事堂
リングシュトラーセの景観には歴史主義様式が採用され、帝国議会はギリシャのヘレニズム様式で建てられます。
ウィーン市庁舎
中世ヨーロッパの後期ゴシック様式で建てられています。このほかウィーン大学はルネサンス様式、ブルク劇場はバロック様式が採用されています。
バブル崩壊
リングシュトラーセの建設ラッシュに合わせて経済成長を続けたウィーンは、1873年にウィーン万国博覧会の開催地となり日本政府も初めて公式に出品しました。しかしこの年にウィーン株式市場が大暴落して8つの銀行が破綻して多くの市民投資家が巻き添えとなりました。バブルが崩壊したウィーンは、反ユダヤ主義とドイツ民族主義が台頭することになります。