カンタベリー
カンタベリーはイギリス南東部のケント州に位置する都市です。イギリスで初めてキリスト教が布教されたと言われ、カンタベリー大聖堂の門前町として形成されました。中世からイングランド南部の代表的な巡礼地として栄えてきたイングランドで最も人気の高い観光地の一つになります。
概要
- 面積
- 308.84km2
- 標高
- 不明
- 人口
- 4.343万 (2001年)
- 地図
特集
英国国教会とカンタベリー大聖堂
カンタベリー大聖堂は英国国教会の総本山に位置付けられています。英国王室と関係が深く聖トマスが眠る場所として一大巡礼地になりました。
歴史
カンタベリーはローマ人により町が形成されました。アングロサクソン七王国のケント王国が治めるようになるとキリスト教が伝来してイングランドで初めてキリスト教修道院が建てられました。ヴァイキングによる侵略や内乱などが起こりますが、カンタベリー大司教の地位は着実に力を着けてカンタベリーの町は門前町として栄えました。
ケント王国の成立
カンタベリーは先史時代から人の営みがありました。西暦1世紀頃にローマ人が入植すると、デュロヴェルナムカンティアコルムと名付けられました。この頃に軍事的な拠点はありませんでしたが、3世紀後半から周囲民族の侵攻から守るために壁が建造されました。
カンタベリー市街
イギリスで最初にキリスト教が伝来し、カンタベリー大聖堂の門前町として栄えました。
シティーウォール
3世紀後半から周囲民族の侵攻から守るために町を取り囲む壁が築かれました。
ローマ帝国が内乱と外敵の侵入の対応に追われてブリテン島を見放すようになると、旧ローマ人とゲルマン人の抗争が激しくなり、6世紀にはアングロサクソン七王国(ヘプターキー)が出来上がりました。カンタベリーがあるイギリス南東部はアングロサクソン七王国のひとつケント王国が支配しました。
キリスト教の伝来と聖オーガスティン修道院
ローマ教皇グレゴリウス1世は597年にアウグスティヌスをカンタベリーに派遣してケント王国の国王エセルベルフトがキリスト教を受け入れました。601年にアウグスティヌスは初代カンタベリー大司教となり、カンタベリーはキリスト教の中心地となりイングランドではキリスト教の頂点をカンタベリー大司教が務めることになります。アウグスティヌスは聖オーガスティン修道院の前身となる修道院を建立しました。
ケント王エゼベルト
王妃ベルタの影響を受けてアングロサクソン王として初めてキリスト教徒になりました。
聖オーガスティン修道院
598年に設立した最古のベネディクト修道院跡で、978年にドゥンスタン大司教が再建して聖オーガスティン修道院と名付けられました。
ヴァイキングによる襲撃
8世紀末からデンマークに出自を持つデーン人ヴァイキングは、ブリテン島を植民地化の可能性がある場所と見なしてキリスト教修道院を攻撃しました。こうした脅威から829年にはウェセックス王エグバートがイングランドを統一してヴァイキングに対抗しますが、北海に面するカンタベリーは842年と851年にデーン人の襲撃で大きな被害を被りました。1002年に無思慮王(アンレディ)と呼ばれるイングランド王エセルレッドは、イングランド内のデーン人を殺害しました。これを契機としてデンマーク王スヴェンがイングランドに侵攻を始め、1011年にはデーン人がカンタベリーを陥落してカンタベリー大聖堂は略奪のうえ焼き払われました。
ノルマンコンクエスト
スヴェンの跡を継いだデンマーク王クヌートは1016年にイングランドを征服してデーン朝を建て、デンマーク、ノルウェー、イングランドを支配下に置いて北海帝国を成立させました。1036年にクヌートが死去して北海帝国が分裂するとイングランド王にエドワードが即位してアングロ=サクソン系の王権が復活しますが、1066年のノルマンディ公ウィリアム(ギヨーム2世)によるノルマンコンクェストでノルマン人に征服されました。カンタベリーの市民は、かつて侵略者に抵抗して町が焼き払われた経験を踏まえてノルマンコンクエストでは抵抗せずに町を明け渡しています。
ヴァイキング
9~12世紀に海洋に進出し交易や略奪を行い、カンタベリーを陥落してカンタベリー大聖堂は略奪のうえ焼き払われました。
ウィリアム1世
ノルマンディ公ウィリアム(ギヨーム2世)はノルマンコンクエストでイングランド国王になり、ウィリアム1世を名乗りました。
カンタベリー大聖堂
カンタベリー大聖堂は、602年からベネディクト修道会がカンタベリー大聖堂の前身となる教会を設立しました。11世紀のノルマンコンクエストの6年後にカンタベリー大司教がイギリスの代表となり、カンタベリー大聖堂が中心的な存在となりました。カンタベリー大聖堂は火災で焼失したため、現存している建物は12世紀から16世紀にかけて再建されたものです。
ベケット暗殺
カンタベリー大司教トマス・ベケットはイングランド国王ヘンリー2世と対立するようになり、ヘンリー2世の騎士が襲撃して1170年に殉教しました。ベケットはローマ教皇により聖人に列せられカンタベリー大聖堂にベケット廟が設けられました。
カンタベリー大聖堂
イギリス国教会の頂点に君臨する教会で、現存している建物は12世紀から16世紀にかけて再建されたものです。
ベケット暗殺
ヘンリー2世の騎士4人により暗殺され、ヘンリー2世は良心の呵責と祟りを恐れて巡礼を推奨し、中世の巡礼者が訪れるようになりました。
その後のカンタベリー
1339にイングランド国王エドワード3世がフランス王位の継承権を主張して百年戦争が起こり、この最中の1348年にヨーロッパで猛威を振るう黒死病(ペスト)がカンタベリーを襲いました。こうした災難の中、戦費を稼ぐため厳しく徴税を行うようになると1381年にワット・タイラーを指導者とする農民一揆ワット・タイラーの乱が起こりました。
1534年にヘンリー8世が離婚問題から教皇と対立すると、ヘンリー8世は国王至上法を発布してカトリックと絶縁しました。カンタベリー大司教はヘンリー8世の離婚を許可する独自の判断を出しました。1559年のエリザベス1世の統一令によりカンタベリー大司教座はカンタベリー大主教座と改められ英国国教会の総本山の地位を獲得しました。
ワット・タイラーの乱
ワット・タイラーを指導者とする農民一揆で、農民たちはカンタベリー大聖堂に侵入し当時の大司教を殺害しました。
ヘンリー8世
自身の離婚問題から英国国教会を設立し、カンタベリー大聖堂は英国国教会の総本山の地位を獲得しました。