歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

英国国教会とカンタベリー大聖堂

イギリス・カンタベリーのカンタベリー大聖堂

カンタベリー大聖堂は6世紀に創建された約1400年の歴史を誇る大聖堂で英国国教会の総本山に位置付けられています。英国王室と関係が深く聖トマスが眠る場所として一大巡礼地になりました。1988年にはカンタベリー大聖堂、聖オーガスティン大修道院跡及び聖マーティン教会として世界遺産に登録されています。

ケント王国とキリスト教伝来

ブリテン島は1世紀からローマ帝国が支配していましたが、ローマ帝国が内乱と外敵の侵入の対応に追われてブリテン島を見放すようになると、旧ローマ人とゲルマン人の抗争が激しくなり混乱の時代を迎えました。6世紀にはアングロサクソン七王国(ヘプターキー)が出来上がり、カンタベリーがあるイギリス南東部はアングロサクソン七王国のひとつケント王国が支配しました。ケント王エゼベルトはキリスト教徒のベルタと結婚していたため、アングロサクソン王として初めてキリスト教を信仰し、ローマ教皇が派遣したアウグスティヌスに布教を許し王妃ベルタが使用していた聖マーチン教会で布教を開始しました。

ケント王エゼベルト

ケント王エゼベルト

キリスト教徒の王妃ベルタの影響でアングロサクソン王として初めてキリスト教を信仰し、アウグスティヌスに布教を許しました。

王妃ベルタ

王妃ベルタ

敬虔なキリスト教徒で、ベルタが使用していた聖マーチン教会でキリスト教の布教が始められました。

カンタベリー大司教の設置

597年にローマ教皇グレゴリウス1世が派遣したアウグスティヌスは初代カンタベリー大司教となり、602年に大聖堂の前身となる教会を創建してイングランドのキリスト教の頂点をカンタベリー大司教が務めることになりました。10世紀になるとウェセックス王家エドガーがアングロサクソン七王国を統一してイングランド王国を建国しますが、エドガーはカンタベリー大司教ダンスタンと共に国内を整備して、カンタベリー大司教から戴冠する制度を確立したことでカンタベリー大司教は特別な存在となります。

イギリス・カンタベリーのカンタベリー大聖堂

カンタベリー大聖堂

初代イングランド国王がカンタベリー大司教から戴冠する制度を確立したことでカンタベリー大司教は特別な存在となりました。

アウグスティヌス

アウグスティヌス

ローマ教皇グレゴリウス1世が派遣した司教で、初代カンタベリー大司教に任命されました。

聖オーガスティン修道院の設立

ローマ教皇グレゴリウス1世から派遣された初代カンタベリー大司教アウグティヌスは598年に修道院を設立し、アウグスティヌスの英語読みである聖オーガスティン修道院を設立しました。605年にアウグスティヌスが亡くなるとその亡骸は聖オーガスティン修道院に埋葬され、初代ケント王エゼベルトを始めとする歴代ケント王やカンタベリー大司教を埋葬する霊廟となりました。

イギリス・カンタベリーの聖オーガスティン修道院

聖オーガスティン修道院

カトリック教会最古の修道会ベネディクト会修道院に属し、978年に大きな建物が建てられて修道院内部には地下聖堂(クリプト)が設けられました。

イギリス・カンタベリーの聖オーガスティン修道院フィンドン・ゲート

フィンドン・ゲート

1309年にはフィンドン・ゲートと呼ばれる大門が建設され、拡張された敷地には学校や図書館のほかブドウ畑などが設置されました。

カンタベリー大聖堂

カンタベリー大聖堂はイングランド南東部にある英国国教会の総本山です。602年に前身となる大聖堂が建造されて11世紀に完成しましたが、完成した日の夜に火災で焼失したため1070年から1089年にロマネスク様式で再建して1379年から1503年にフランス出身のギヨームのもとイギリスで初めてゴシック様式で建造されました。

イギリス・カンタベリーのカンタベリー大聖堂

カンタベリー大聖堂

11世紀に建造されたイギリスで初めてとなるゴシック様式の聖堂で、全長160m、幅47m、高さ72mあります。

イギリス・カンタベリーのカンタベリー大聖堂

カンタベリー大聖堂

ソールズベリー大聖堂と並びイギリス国教会で最も格の高い大聖堂としての地位を築いています。

聖ベケットの暗殺

1155年にヘンリー2世は大法官にトマス・ベケットを抜擢しました。1161年にカンタベリー大司教シオポルドが亡くなると、ヘンリー2世はベケットを大司教に任命しますが、ベケットは教会の権力強化を主張してヘンリー2世と対立するようになりました。1170年にヘンリー2世の騎士はベケットを殺害しますが、これに国民は反感を抱き、その2年後にローマ教皇はベケットを聖人に列したためヘンリー2世はベケットの墓前で懺悔しました。この事件は子ジョン王と教皇インノケンティウス3世の対立の遠因となります。ベケットは奇跡的な治癒力があるという伝説の持ち主で、ベケットの霊廟があるカンタベリー大聖堂はヨーロッパを中心に一大巡礼地となりました。

ベケット暗殺

ベケット暗殺

ヘンリー2世の騎士ヒュー・ド・モービルら4人はカンタベリー大聖堂を襲撃してベケットを殺害しました。

イギリス・カンタベリーのベケット霊廟跡

ベケット霊廟跡

ヘンリー8世はカンタベリー大聖堂を英国国教会の総本山とすると、聖トマスの霊廟を取り壊しました。現在はキャンドルが灯されています。

イングランドの宗教改革

この頃は聖書はラテン語で記されており、国の外交文書などはラテン語で記述することが常識でした。ラテン語は聖職者しか扱えないため、聖職者が官僚を独占している状態にありました。1167年のオックスフォード大学と1209年のケンブリッジ大学の設立により聖職者以外でもラテン語を扱うことができる人が増えて、十字軍の失敗でローマ教皇の権威が衰えていたこともあり、聖職者以外の者が官僚になることができるようになりました。

オックスフォード大学教授ジョン・ウィクリフは、正しい信仰は聖職者によるものでなく聖書により導かれるものと説きました。当時の聖職者は民衆がラテン語を読み書きできないことを理由に都合の良いことを民衆に教えていたため、腐敗した聖職者が説くものでなく聖書にに導かれるべきとして、ウィクリフは聖書を英語に翻訳しました。1414年のコンスタンツ公会議でウィクリフは異端となり、ウィクリフの遺体は掘り起こされ自身の著書とともに火刑に処されました。

オックスフォード大学

オックスフォード大学

1167年に設立された古くからある由緒ある大学で、ラテン語を教えたことで聖職者以外でも官僚になることができるようになりました。

ジョン・ウィクリフ

ジョン・ウィクリフ

1414年のコンスタンツ公会議でウィクリフは異端となり、ウィクリフの遺体は掘り起こされ自身の著書とともに火刑に処されました。

イギリス国教会の設立

ウィクリフの宗教改革はイギリス国教会設立の端緒となりました。15世紀になるとローマ教皇が分裂状態にあるため、イングランド国王ヘンリー5世が行政文書を英語化しました。イングランドはランカスター家とヨーク家の薔薇戦争に突入して、ランカスター家ヘンリー7世はヨーク家エリザベスと結婚して新たにテューダー家がイングランド国王となります。1509年にヘンリー7世の跡を継いだヘンリー8世は、キャサリン・オブ・アラゴンと結婚しますが、男児に恵まれずにキャサリンとの離婚を決めました。キャサリンの甥である神聖ローマ皇帝カール5世とローマ教皇クレメンス7世はこれに反発したため、ヘンリー8世は1534年に国王をイングランド教会最高首長とする国王至上法を制定して英国国教会を設立しました。カンタベリー大司教には自らの息がかかるケンブリッジ大学教授トマス・クランマーを置き、イングランド領内の教会勢力の資産を没収して教会勢力の権限を一掃しました。

ヘンリー8世

ヘンリー8世

自身の離婚問題からローマ・カトリックから独立して英国国教会を設立しました。多くの王妃らを処刑したため、狂王と呼ばれました。

トマス・クランマー

トマス・クランマー

ヘンリー8世の側近として英国国教会設立に尽力しましたが、のちにジェーン・グレイを女王に押したことでメアリー1世に処刑されました。

聖オーガスティン修道院の衰退

自身の離婚問題からローマ・カトリックから独立して英国国教会を設立したヘンリー8世は、年収100ポンド未満の修道院の解散を命じたあと、1538年に修道院解散令を出しました。聖オーガスティン修道院は閉鎖されて15年かけて解体されました。聖オーガスティン修道院の跡地はヘンリー8世の妃であるアン・オブ・クレーヴズのための宮殿へと造りかえられました。それから貴族たちに貸し出されましたが1703年に大嵐で損壊して放棄され廃墟になりました。

アン・オブ・クレーヴズ

アン・オブ・クレーヴズ

ヘンリー8世の4番目の王妃となりましたが、離婚を通告されて王の妹の称号と所領が与えられました。

イギリス・カンタベリーの聖オーガスティン修道院

聖オーガスティン修道院

聖オーガスティン修道院の跡地はヘンリー8世の妃であるアン・オブ・クレーヴズのための宮殿へと造りかえられました。

解散を免れたカンタベリー大聖堂

カンタベリー大聖堂の玄関にあたるクライスト・チャーチ・ゲートは、ヘンリー7世が息子のプリンスオブウェールズ・アーサーとキャサリンの結婚を記念して1517年に完成しました。このため、ヘンリー8世の修道院解散の時も破壊を免れました。

イギリス・カンタベリーのカンタベリー大聖堂の身廊

カンタベリー大聖堂

二重内陣式大聖堂の聖堂は何度か修復・増築が行われ、東西に祭室、翼廊、修道院や図書館なども設置されています。

イギリス・カンタベリーのカンタベリー大聖堂のクライスト・チャーチ・ゲート

クライスト・チャーチ・ゲート

ヘンリー7世が息子のプリンスオブウェールズ・アーサーとキャサリンの結婚を記念して1517年に完成しました。

イギリス・カンタベリーのカンタベリー大聖堂

祭壇

14世紀から15世紀に改築された後期ゴシック様式の高い天井の回廊は、両側にステンドグラスが配置されて光が差し込みます。

イギリス・カンタベリーのカンタベリー大聖堂

ステンドグラス

大聖堂のステンドグラスは文字が読めない人でも聖書の内容が分かるように聖書の物語が描かれ聖書の窓とも呼ばれます。