ボヘミア王国の成立
プラハの周辺はボイイ人が定住しておりローマ人はボヘミアと呼びました。やがて西スラヴ人が移り住みチェック人と呼ばれるようになりました。ボヘミア王国が成立すると聖ヴァーツラフを守護聖人してプラハが首都となりました。プラハは北ヨーロッパから地中海に至る琥珀街道の中継地として交易で栄えました。
チェック人の定住
紀元前5世紀から2世紀にかけてプラハ周辺にはケルト系ボイイ人が住んでいました。ローマ人はボイイ人が住む地域をボヘミアと呼びました。1世紀になるとゲルマン人がボヘミアに侵入して定住を始め、5世紀頃になるとゲルマン人は西に移動して、ボヘミアには西スラヴ人が移り住みました。7世紀には多くの部族が連合してモラヴィア王国を建設して、フランク王国から流入したキリスト教を基盤とする国家となりました。
モラヴィア王国は9世紀に最盛期を迎えますが、906年に西側からマジャル人が侵攻して滅亡しました。マジャル人はさらに南西に進みハンガリーを建国しますが、この時にモラヴィア王国の領域でマジャル人が支配した地域がスロヴァキアとなり、プラハなどの東フランク王国(のちに神聖ローマ帝国)の支配下に置かれた人々がチェック人として分けられました。
プラハ市街
古代ローマ人からボヘミアと呼ばれました。
マジャル人
マジャル人の侵攻によりモラヴィア王国は滅亡しました。
交易で発展したプラハ
チェック人たちはモルダウ川(ヴルタヴァ川)が流れるプラハに定住して町を築きました。モルダウ川は北海に注ぎ込むエルベ川と繋がりバルト沿岸の琥珀や毛皮、蠟などの交易で利用されました。またモルダウ川の上流はウィーンを中心としたドナウ川流域に至り、地中海方面から胡椒・香辛料、ワインなどがもたらされました。
バルト海沿岸で産出された琥珀は古代ローマなどでは貴重品として扱われており、北ヨーロッパから地中海に至る交易路は琥珀街道と言われました。プラハも琥珀街道の中継地の一つとして繁栄し、上流のウィーンや下流のドイツとの交易が盛んに行われました。
モルダウ川(ヴルダヴァ川)
交易として利用されました。
琥珀
古代ローマなどで重宝されました。
守護聖人聖ヴァーツラフ
10世紀になるとチェック人は、プシェミスル家を指導者として民族的に自立し、プラハを中心としたボヘミア王国を建国しました。最初のボヘミア王とされるヴァーツラフはキリスト教を広めようとしますが反対する弟とその家臣により暗殺されたため、後に聖人に列せられてチェコの守護聖人聖ヴァーツラフとなりました。
聖ヴィート大聖堂
プラハ城の敷地にある聖ヴィート大聖堂は、東フランク王ハインリヒ1世から聖ヴィートの腕を与えられたヴァーツラフが925年に建造した教会を前身としています。教会内部にはボヘミア王の廟墓があり、教会内部の壁にはボヘミア公ヴァーツラフの生涯が描かれ、ヴァーツラフが弟に暗殺された場面もあります。
聖ヴィート大聖堂
聖ヴィートの腕が祀られています。
聖ヴァーツラフ礼拝堂
ヴァーツラフの生涯が描かれています。
ボヘミア王国の成立
ボヘミアは神聖ローマ帝国皇帝に従属する公国でしたが、1212年にボヘミア公オタカル1世は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世から領邦の一つであることが認められて王の称号を授かり、ボヘミア王国プシュミスル朝が成立してプラハはその首都とされました。
オタカル1世からヴァーツラフ1世に王位が継承されると、その息子オタカル2世は1252年にオーストリア公家マルガレーテと結婚してオーストリア公位を獲得しました。やがてヴァーツラフ1世が逝去してオタカル2世がボヘミア王位を継承するとオーストリアはボヘミア王国の支配下になりました。
オタカル1世
ボヘミア王国プシュミスル朝を建国しました。
フリードリヒ2世
神聖ローマ帝国の皇帝として権力を握りました。
ハプスブルグ家の台頭
オタカル2世はさらに勢力を拡大してボヘミア王国の領地はアドリア海に到達するほど広がり神聖ローマ帝国の皇帝に推挙されるほどになります。しかしオタカル2世の勢力拡大を恐れた諸侯たちは神聖ローマ帝国の皇帝選挙でハプスブルグ家ルドルフ1世を押して皇帝としました。
ルドルフ1世はボヘミア王国の領土削減を行い1276年までに拡大した領土を失うことになります。オタカル2世は1278年にマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世に決戦を挑みますが、これに破れて戦死して神聖ローマ帝国の主導権はウィーンのハプスブルク家に完全に移りました。
ルドルフ1世
神聖ローマ帝国皇帝になりました。
オタカル2世
ボヘミア王国を拡大しましたが戦死しました。