歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ボヘミア王国の成立

チェコ・プラハのモルダウ川(ヴルタヴァ川)

ボイイ人が定住していたプラハの周辺は、ローマ人からボヘミアと呼ばれていました。やがてチェック人と呼ばれる西スラヴ人が移り住みました。ボヘミア王国が成立すると聖ヴァーツラフを守護聖人してプラハが首都となりました。プラハは北ヨーロッパから地中海に至る琥珀街道の中継地として交易で栄えました。

ボヘミア地方の形成

紀元前5世紀から2世紀にかけて、プラハ周辺にはケルト系ボイイ人が住んでいました。ローマ人はボイイ人が住む地域をボヘミアと呼びました。1世紀にゲルマン人がボヘミアに侵入して定住を始め、5世紀頃になるとゲルマン人は西に移動して、ボヘミアには西スラヴ人が移り住みました。7世紀には多くの部族が連合してモラヴィア王国を建設し、フランク王国から流入したキリスト教を基盤とする国家となりました。

チェック人の定住

モラヴィア王国は9世紀に最盛期を迎えますが、906年に西側からマジャル人が侵攻して滅亡しました。マジャル人はさらに南西に進みハンガリーを建国しますが、この時にモラヴィア王国の領域でマジャル人が支配した地域がスロヴァキアとなり、プラハなどの東フランク王国(のちに神聖ローマ帝国)の支配下に置かれた人種がチェック人となりました。

チェコ・プラハ市街

プラハ市街

ヴルタヴァ川を挟んで旧市街と新市街に分かれています。中世の雰囲気が色濃く残り百塔の街やヨーロッパの建築博物館と称され、1992年に町全体が世界遺産に登録されました。

ハンガリー・ブダペストの英雄広場

マジャル人

ロシア連邦西部に住んでいた遊牧民族と考えられています。9世紀後半にアールパードという指導者がモラヴィア王国に侵攻して滅ぼしました。

交易で発展したプラハ

チェック人たちはモルダウ川(ヴルタヴァ川)が流れるプラハに定住して町を築きました。モルダウ川は北海に注ぎ込むエルベ川と繋がり、バルト沿岸の琥珀や毛皮、蠟などの交易に使われました。モルダウ川の上流はウィーンを中心としたドナウ川流域に至り、地中海方面から胡椒や香辛料、ワインなどがもたらされました。プラハは上流のウィーンや下流のドイツを繋ぐ中継地の一つとして繁栄しました。

琥珀

琥珀

バルト海沿岸で産出された琥珀は古代ローマなどでは貴重品として扱われ、北ヨーロッパから地中海に至る交易路は琥珀街道と言われました。

守護聖人聖ヴァーツラフ

10世紀になるとチェック人は、プシェミスル家を指導者として民族的に自立し、プラハを中心としたボヘミア王国を建国しました。最初のボヘミア王とされるヴァーツラフは、キリスト教を広めようとして反対する弟とその家臣により暗殺されました。ヴァーツラフは聖人に列せられ、チェコの守護聖人となりました。

チェコ・プラハの聖ヴィート大聖堂

聖ヴィート大聖堂

925年にヴァーツラフがプラハ城内に建築した教会を前身としており、東フランク王ハインリヒ1世から与えられた聖ヴィートの腕が祀られています。

チェコ・プラハの聖ヴィート大聖堂

聖ヴァーツラフ礼拝堂

聖ヴィート大聖堂は、教会内部にはボヘミア王の廟墓があり、教会内部の壁にはボヘミア公ヴァーツラフの生涯が描かれ、ヴァーツラフが弟に暗殺された場面もあります。

ボヘミア王国の成立

1212年にボヘミア公オタカル1世は、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世から領邦の一つとして認められ、ボヘミア王国プシュミスル朝が成立してプラハを首都としました。オタカル1世からヴァーツラフ1世に王位が継承されると、1252年にヴァーツラフ1世の息子オタカル2世がオーストリア公家マルガレーテと結婚してオーストリア公位を獲得しました。やがてヴァーツラフ1世が逝去してオタカル2世がボヘミア王位を継承すると、オーストリアもボヘミア王国の支配下になりました。

オタカル1世

オタカル1世

神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世から領邦の一つとして認められ、ボヘミア王国プシュミスル朝が成立してプラハを首都としました。

フリードリヒ2世

フリードリヒ2世

世界の驚異と称された神聖ローマ皇帝で、教皇グレゴリウス9世と激しく対立して何度も破門させられました。彼の死後、神聖ローマ帝国は大空位時代を迎えます。

ハプスブルグ家の台頭

オタカル2世はさらに勢力を拡大し、ボヘミア王国の領地はアドリア海に到達するほど広がりました。オタカル2世は神聖ローマ皇帝に推挙されるほどになりますが、オタカル2世の勢力拡大を恐れた諸侯たちは、神聖ローマ帝国の皇帝選挙でハプスブルグ家ルドルフ1世を推して皇帝としました。

マルヒフェルトの戦い

ルドルフ1世はボヘミア王国の領土削減を行い、1276年までに拡大した領土を失うことになります。1278年にオタカル2世はルドルフ1世に決戦を挑みますが、これに破れて戦死して神聖ローマ帝国の主導権はウィーンのハプスブルク家に完全に移りました。

ルドルフ1世

ルドルフ1世

神聖ローマ皇帝が不在となる大空位時代を迎えていましたが、有力諸侯の利害が一致して皇帝に即位し、ハプスブルク家の基盤を確立しました。

オタカル2世

オタカル2世

ボヘミア王国を拡大して神聖ローマ皇帝に推挙されましたが、マルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて戦死しました。