プラハ

プラハはヨーロッパのほぼ中心にあるチェコ共和国の首都です。プラハ市街にはヴァルタヴァ川が流れて町を二分しています。百塔のプラハと呼ばれ多くの塔が建ち並び、ゴシック様式の教会や中世時代の天文時計などの中世の建造物が残されているため、1992年にプラハ歴史地区は世界遺産に登録されました。
概要
- 面積
- 496km2
- 標高
- 177 - 399m
- 人口
- 130.9万 (2019年)
- 地図
特集
歴史
地中海とバルト海を結ぶ交易路にあるプラハは古くから交易の町として栄えていました。神聖ローマ皇帝カール4世のときに整備が進められ、黄金のプラハと称されるほど繁栄しました。フス派による宗教改革を遠因とした三十年戦争で神聖ローマ帝国が弱体化すると、民主化へと傾いて独立に向かいました。国家は解体と分裂を繰り返しますが、プラハは首都として中心的な役割を担いました。
ボヘミア王国の成立
プラハの一帯にはケルト系ボイイ人が住んでおり、ローマ人たちはボイイ人が住む地域をボヘミアと呼びました。ローマではバルト海沿岸で産出される琥珀を求め、プラハを経由してバルト海に続く交易路を整備しました。交易路は琥珀街道と呼ばれ、プラハは北ヨーロッパと地中海を行き交う中継地として繁栄しました。
ハプスブルグ家の統治
10世紀になるとチェック人がプラハを中心としたボヘミア王国を建国しました。ボヘミアは神聖ローマ帝国に従属する公国でしたが、神聖ローマ皇帝に小領主のハプスブルグ家ルドルフ1世が選ばれると、ボヘミア公オタカル2世はこれに従いませんでした。1278年にボヘミア公オタカル2世はルドルフ1世に敗れ、ボヘミアの地はハプスブルグ家が支配することになりました。

プラハ市街
ヴルタヴァ川を挟んで旧市街と新市街に分かれています。中世の雰囲気が色濃く残り百塔の街やヨーロッパの建築博物館と称され、1992年に町全体が世界遺産に登録されました。

ルドルフ1世
神聖ローマ皇帝が不在となる大空位時代を迎えていましたが、有力諸侯の利害が一致して皇帝に即位し、ハプスブルク家の基盤を確立しました。
神聖ローマ帝国の支配
プラハは神聖ローマ帝国の支配下に置かれ、カール4世が首都として定めて旧市街を整備しました。カール4世は中部ヨーロッパで最初の大学となるプラハ大学を創設し、1356年には金印勅書を発布して皇帝選挙の手続きを定めました。
宗教改革と宗教対立
カトリック教会の大分裂などでカトリックの権威が低下すると、プラハ大学総長ヤン・フスが宗教改革運動を行いフス派と呼ばれる勢力が誕生しました。フス派はマルティン・ルターによる宗教改革の先駆けとなり、諸外国を巻き込む三十年戦争に発展しました。ボヘミアは三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約で独立が認められず、公用語としてチェコ語が使用できないことから、プラハを含む各地で暴動が起きました。

プラハ城
ギネスに登録された世界最古で最大の城です。プラハ城はカール4世が大改修したのちも増改築が繰り返されて600年かけて現在の姿になりました。

旧市街広場
フェルディナント2世により弾圧された新教徒たちは神聖ローマ帝国に反乱を起こし、1621年にプラハ旧市街広場で首謀者27名が処刑されました。
チェコ民族の独立と民主化
プラハを支配したオーストリア=ハンガリー帝国は、サラエボ事件を端緒として第一次世界大戦に発展しました。オーストリア=ハンガリー帝国は内乱状態に陥り、1919年にプラハを首都とするチェコスロヴァキア共和国が独立しました。第二次世界大戦が起こるとドイツによりチェコスロヴァキアは解体されました。
社会主義から民主化へ
1945年にドイツが降伏してチェコスロヴァキアは解放されますが、ソ連の影響を受けた共産党がクーデターを起こしてチェコスロヴァキア社会主義共和国としてスターリン体制下に入りました。1968年にプラハの春と呼ばれる民主化運動が盛んとなり、1989年にソ連の影響を脱して民主化を果たしました。1992年に経済の伸び悩みを理由にチェコとスロヴァキアは分離しました。

プラハ市街
プラハは自動車産業や化学工業などの中心地として発展しました。特に社会主義時代には計画経済の下で工業が大規模に発展しました。

ヴァーツラフ広場
1985年にソ連でゴルバチョフが書記長に就任しペレストロイカが始まると、一気に東欧諸国の民主化が進んで、1989年に大規模な市民集会が開催されました。