神聖ローマ帝国と宗教改革

神聖ローマ帝国の支配下に置かれたプラハは、カール4世により旧市街が整備されプラハ大学が設立するなど栄華を誇りました。プラハ大学のヤン・フスはカトリック教会を批判して、やがてルターによる宗教改革に繋がりました。敬虔なカトリックの皇帝フェルディナント2世は弾圧を行い三十年戦争に発展し、封建制度の崩壊へと繋がることになります。
神聖ローマ皇帝と首都プラハ
1306年にボヘミア王ヴァーツラフ3世が暗殺されてプシェミスル朝が断絶すると、ルクセンブルク家のドイツ王カール4世がボヘミア王を兼任して、さらに神聖ローマ帝国の皇帝に就任しました。カール4世は1348年に中部ヨーロッパで最初の大学となるプラハ大学を創設し、1356年には金印勅書を発布して皇帝選挙の手続きを定めました。プラハは神聖ローマ帝国の首都としての政治的中心地となり、黄金のプラハと称されるほど繁栄を極めました。

プラハ城
1483年に神聖ローマ皇帝位がハプスブルク家に移りました。ウィーンに移るまで世界最古で最大規模のプラハ城を中心に政治が行われました。

カレル橋
プラハにあるカレル橋はカール4世のチェコ語表記カレルを冠します。このようにプラハにはカール4世にちなんだ地名が現在も各地に残されています。
プラハ城と旧市街の形成
14世紀にカール4世は、9世紀に建造された城塞を大改修しました。プラハ城の麓にある旧市街には、15世紀から16世紀のプラハ黄金時代の建物が残されています。

プラハ城
ギネスに登録された世界最古で最大の城です。プラハ城はカール4世が大改修したのちも増改築が繰り返されて600年かけて現在の姿になりました。

天文時計
1410年に時計職人のミクラシュと天才天文学者ヤン・シンデルが設計しました。上の時計が時間プラネタリウムで、下の時計が季節カレンダリウムです。
ヤン・フスとフス戦争
カール4世の統治時代は、カトリック教会が大分裂するなど教皇の権威が低下していました。プラハ大学の総長ヤン・フスは、カトリック教会を厳しく批判するフス派を結成しました。1414年にローマ教会はコンスタンツ公会議を開き、フスを異端と断定して翌年にヤン・フスを処刑しました。プラハのフス派市民は強く反発し、1419年にプラハ市庁舎を襲撃して第一次プラハ窓外放出事件を起こしました。フス派は15年以上にわたりドイツ皇帝と戦いを続け、1436年にドイツ皇帝とフス派穏健派の講和で収束しました。フス派は引き続き活動を続け、三十年戦争ではプロテスタントとともに戦いました。

ヤン・フス
ヤン・フスはオックスフォード大学の神学教授ウィクリフの影響を受けてフス派を形成しましたが、ローマ教皇から異端と断定されて処刑されました。

プラハ・カレル大学
カール4世が開設したヨーロッパ2番目の大学です。プラハ大学から生まれたフス派は、マルティン・ルターの宗教改革の先駆となりました。
神聖ローマ帝国と宗教改革
1517年にドイツでマルティン・ルターによる宗教改革が始まると、ドイツ農民戦争などの宗教戦争が相次ぎました。1526年にボヘミア及びハンガリー王ラヨシュ2世が戦死し、ハプスブルク家の皇帝フェルディナント1世がプラハを含むボヘミアを支配しました。フェルディナント1世は1555年のアウクスブルクの和議によりプロテスタントを認め、ボヘミアでもプロテスタントが公認されました。1576年にボヘミア王を兼ねて即位した皇帝ルドルフ2世は、1583年にハプスブルク家の宮廷をプラハに移し、プラハはヨーロッパの文化の中心として最も華やかな時代を迎えました。

マルティン・ルター
宗教改革を主導したドイツの神学者で、カトリック教会の免罪符の販売を批判して95ヶ条の論題を提示し、プロテスタント教会の設立につながりました。

ティーン教会
プラハの旧市街広場に位置するゴシック様式の教会で、正式名称はティーンの前の聖母マリア教会といいます。16世紀初頭に完成した当初はフス派の中心的な教会でした。
宗教戦争の再燃
神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、1617年にボヘミア王の座に就きました。フィルディナンド2世はプロテスタントを弾圧してドイツ語を強制しようとしました。信仰の自由と民族性を否定されたプラハの新教徒貴族は、1618年に皇帝の代官を役所の窓から投げ捨てる第二次プラハ窓外放出事件を起こし、三十年戦争に発展しました。
三十年戦争
新教徒貴族はプロテスタントのフリードリヒ1世をボヘミア王に即位させますが、神聖ローマ帝国は反乱鎮圧のために兵を送ります。1620年に白山の戦いでボヘミアの反乱軍を破り、厳しい戦後処理に対して同じプロテスタントのデンマークが神聖ローマ帝国に宣戦布告して、スウェーデン、フランスも介入する紛争となりました。各国を巻き込む形で長期化した三十年戦争は、1648年にウェストファリア条約を締結して終結しました。

フェルディナント2世
プロテスタントを弾圧してカトリック信仰を住民に強制しようとし、同時にドイツ語を強制しようとしました。反発する新教徒貴族は反乱を起こして三十年戦争となりました。

旧市街広場
新教徒貴族の反乱は神聖ローマ帝国により鎮圧され、1621年にプラハ旧市街広場で首謀者27名が処刑されました。
ハプスブルク家と諸国民の春
1648年のウェストファリア条約で独立を果たせなかったボヘミアは、以降もオーストリア帝国ハプスブルク家の支配下が続きました。プラハは帝国内で最も進んだ産業都市として多くの資本家が生まれ、民族的自覚も強まりました。1789年のフランス革命で封建制度が揺らぎますが、ナポレオンは封建制度を復活して、各国がウイーン会議で封建制度を維持するウイーン体制を支持しました。1848年に欧州各地で諸国民の春と呼ばれる革命が爆発し、ウィーンでもハプスブルク家支配に対して三月革命が起こりました。

プラハ市街
プラハでもスラヴ系民族の統一を目指してスラヴ民族会議を召集しました。民衆は聖霊降臨祭で武装蜂起しますが、ハプスブルク家により武力鎮圧されました。

プラハ市街
19世紀後半に青年チェコ党を中心とする民族運動が盛んとなりました。オーストリアはチェコ語の公用語化を認めないため、プラハを含む各地で暴動が起こりました。