チェコ民族の独立と民主化

第一次世界大戦を契機として、チェコスロヴァキアはプラハを首都として独立を果たしました。ドイツの圧力により解体されたあと、第二次世界大戦で復活するときにはソ連の影響を受けて社会主義国家となりました。プラハの春と呼ばれる民主化の運動で民主化されますが、チェコはスロヴァキアと分裂する数奇な運命をたどります。
チェコスロヴァキアの独立
プラハを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国は、サラエボ事件を端緒として第一次世界大戦に発展しました。第一次世界大戦末期にイタリア王国の攻勢と諸民族の反乱でオーストリア=ハンガリー帝国が内乱状態に陥ると、チェック人の民族独立は一気に高まりました。1919年に連合国とオーストリアとの間でサンジェルマン条約が締結され、マサリクを初代大統領としてチェコスロヴァキア共和国が独立しました。このチェコスロヴァキアを第一共和制と呼びます。

トマーシュ・マサリク
プラハ大学の教授で、チェコスロヴァキア建国の父と言われます。世界にチェコ人の独立を訴え、1918年にプラハで大規模な民族独立を求める集会を行いました。
ナチスドイツによる解体
1933年に東方への進出を掲げたドイツのヒトラーは、ドイツ系住民が多いズデーテン地方の割譲をチェコスロヴァキアに要求しました。1938年のミュンヘン会議でチェコスロヴァキア代表が参加しないまま割譲が承認され、ヒトラーはズデーテンにドイツ軍を進駐させて併合しました。チェコスロヴァキアは新たな第二共和国に移行しましたが、1939年に西半分のモラヴィアはドイツの保護領となり、東半分は独立国としてチェコスロヴァキアは解体されました。大統領のベネシュは第二次世界大戦の開戦でロンドンに亡命し、ドイツ占領下のプラハではゲリラによる抵抗運動が展開されました。
社会主義下のプラハ
1945年にドイツが降伏してチェコスロヴァキアが解放されると、ベネシュ大統領はプラハで第三共和国を樹立しますが、ソ連の強い影響で共産党と深刻な対立が生じました。チェコスロヴァキア政府はアメリカが発表した社会主義勢力の脅威に対抗する経済支援政策マーシャルプランを受け入れますが、1948年に共産党ゴットワルトはクーデターを起こしてチェコスロヴァキア社会主義共和国を樹立しました。

ゴットワルト
マーシャルプランの導入に反対して、1948年にクーデターを起こして共産党政権によるチェコスロヴァキア社会主義共和国を建国しました。

キンスキー宮殿
18世紀中ごろに貴族キンスキー家のために建てられました。プラハで最も美しいロココ様式の建築物のひとつで、このバルコニーからゴッドワルトが演説を行いました。
民主化運動の表面化
チェコスロヴァキアはソ連の衛星国としてワルシャワ条約機構に加盟し、社会主義化が強行されてスターリン体制下に置かれました。1953年にスターリンが死去するとスターリン批判が起こり、隣国のポーランドやハンガリーで社会主義体制の危機となりました。1960年代になるとチェコスロヴァキアの民主化運動が表面化し、知識人や学生が民主化を強く要求するようになりました。
プラハの春
1968年に共産党第一書記アレクサンデル・ドプチェクが人間の顔をした社会主義として、大胆な言論や結社の自由、市場経済の導入などを打ち出してプラハの春といわれる民主化の機運が一気に進みました。この民主化の動きに対して、ソ連やワルシャワ条約機構の軍がプラハに侵攻して改革を弾圧しましたが、このチェコ事件は世界に衝撃を与え、ソ連の強硬な姿勢に対する国際的非難が高まりました。

ヴァーツラフ広場
1985年にソ連でゴルバチョフが書記長に就任しペレストロイカが始まると、一気に東欧諸国の民主化が進んで、1989年に大規模な市民集会が開催されました。

ヴァーツラフ広場
ハヴェルを中心に結成された民主フォーラムへの政権移譲をソ連も認めざるを得なくなり、ほとんど暴力を伴わないビロード革命により共産党政権が崩壊しました。
チェコとスロヴァキアの分離
チェコスロヴァキアの民主化は達成されましたが、チェコとスロヴァキアは経済が伸び悩んだことで関係が悪化しました。1992年にチェコとスロヴァキアの分離を議会で議決され、翌年にチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離しました。この分離は平和的に行われたことからビロード離婚とも呼ばれ、プラハはチェコ共和国の首都として再出発することになりました。