スペイン統治時代の歴史
フィリピンはアジア最古のカヤオ人が生活しネグリト人の渡来から小さな海洋国家が成立していましたが、16世紀のスペイン人に征服されて植民地となり初めてフィリピンは統一されました。スペイン人が建造した首都マニラはガレオン貿易により大いに栄えましたが、スペインの衰退とともに華僑が実権を握るようになりました。
スペイン統治時代以前のマニラ
マニラの歴史は、約6万7千年前のカヤオ人の人骨がカヤオ洞窟から発見されたことに始まります。カヤオ人はアジア最古のホモサピエンスと言われ、リサール州ビナンゴナンでは紀元前3千年前の岩絵アンゴノ・ペトログリフが発見されています。3万年前にはネグリト人が渡来してから原始マレー系、古マレー系、新マレー系が渡来してフィリピンに定住したと言われます。フィリピンは熱帯のため太古の考古学資料は腐敗して詳細は分かりませんが、西暦900年頃にルソン島トンド王国はインド、アラブ、東アジア、東南アジアとの中継貿易で栄えるなど、宗教、言語、文化的な影響を受けた小さな海洋国家が点在していました。
原始フィリピン
6万年前にアジア最古のカヤオ人が生活し、ネグリト人が渡来してからマレー系の人びとが渡来してフィリピンに定住したと言われます。
バイバイン
モンレアル石にタガログ語の起源バイバイン文字が刻まれます。
マゼラン来航
スペイン王カルロス1世が派遣したマゼラン艦隊は、大西洋から太平洋を横断して1521年にフィリピンに到達しました。マゼランはセブ島セブ王国と同盟を結び原住民をキリスト教に改宗して支配しようとしますが、マクタン島の部族長ラプラプはセブ王国に従わずマゼランと戦いました。数で勝るラプラプはマクタン島の戦いでマゼランを討ち取り、マゼラン艦隊5隻のうち1隻のみが本国スペインに戻りました。
マゼラン
大西洋から太平洋を横断して1521年にフィリピンに到達しました。マゼランは戦死しますが、マゼラン艦隊は世界一周を成し遂げました。
ラプラプ
マクタン島の戦いでマゼランを討ち取り、スペインを国外に追い出したフィリピンの英雄の一人です。
スペイン入植とマニラ建設
スペイン王の命令によりフィリピンに派遣されたレガスピは、1565年にセブ島を根拠地としてフィリピン部族の対立を利用しながら征服を続けました。ルソン島に達したレガスピはマニラの首長ラジャ=ソリマンと従属交渉を行いますが、ソリマンはこれを拒否して戦闘になりました。中国人や日本人も戦闘に加わりましたが、マニラは陥落して1571年にレガスピはマニラ市を建設しました。スペイン国王はルソン島にカスティリヤ新王国の称号を与えて実質的にフィリピンを支配していきます。
マニラ中心地イントラムロス
イントラムロスは、マニラ市の中央を貫流するパシグ川の河口にある幅760メートル、長さ1500メートルの六角形の要塞都市です。1571年にスペイン提督レガスピにより建設され、スペインとその後のアメリカ、日本による支配の拠点になりました。イントラムロスは城壁で囲まれ戦略上重要なところに堡塁や要塞が築かれています。イントラムロスには世界遺産に認定されているサンアグスティン教会やマニラ大聖堂があります。マニラ大聖堂は1571年に創建したフィリピンで最も重要な大聖堂です。太平洋戦争で破壊されましたが1948年に再建されました。
イントラムロス
スペイン提督レガスピにより建設された要塞都市で、スペイン植民地時代に中心となりました。
マニラ大聖堂
1571年に創建したフィリピンで最も重要な大聖堂で、太平洋戦争で破壊されましたが1948年に再建されました。
サンチャゴ要塞
イントラムロスの北西で一番奥にある戦略上最も重要な場所にサンチャゴ要塞があります。スペインが建造した城塞ではありますが、独立運動を起こしたホセ・リサールが囚われの身として処刑されるまで生活し、太平洋戦争で日本軍が司令部を置いているなど、マニラの歴史と共に歩んできました。イントラムロスの南西の城壁にはサンディエゴ堡塁があり、3つの大きな石の輪が数メートル離れて築かれて細い道で繋がります。この部分が塔の基礎になりますが、1760年代にイギリスがマニラを占領したときや太平洋戦争で壊滅的な被害を受けました。
サンチャゴ要塞
スペインが建造した城塞で、イントラムロスの北西で一番奥にある戦略上最も重要な場所に築かれた要塞です。
サンディエゴ堡塁
スペインが南西の抑えとして城壁に建造した堡塁で、イギリスがマニラを占領したときや太平洋戦争で壊滅的な被害を受けました。
ガレオン貿易
スペインは植民地としたフィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコを結ぶ航路を開き、ガレオン船によるガレオン貿易を行うようになりました。ガレオン貿易は1565年のレガスピの太平洋経由のフィリピン到着から、1815年までの250年間にわたりスペインの経済を支えました。豊臣秀吉や徳川家康も朱印船貿易を行いマニラには日本人町が作られて最盛期には3千人もの日本人が暮らしました。マニラを拠点とするスペイン商人は、中国福建からの中国船がもたらす絹織物や陶磁器をメキシコに運び、帰りにメキシコ銀を大量に持ち帰りました。その銀が中国に流入し明から清にかけて中国経済の発展をもたらしました。
日本人町跡
日本人の納屋助左衛門がルソン島との貿易で巨万の富を得るなど、最盛期には3千人もの日本人が暮らしました。
チャイナタウン
2万人を超える中国人はイントラムロスの大砲の射程距離内に居住させられました。世界最古の中華街を形成し、現地人との混血メスティーソが生まれました。
マニラ開港と盛衰
スペインは他の欧米諸国の船の入港を排除して独占的にガレオン貿易を行い、マニラはガレオン貿易の拠点として大いに繁栄しました。17世紀にスペインの衰退とともにオランダ、イギリスが台頭するとマニラ開港の機運が高まりました。1762年から64年まではイギリスの東インド会社が武力でマニラを占拠する事件が起こり、18世紀にはアメリカ船もフィリピン産品を求めて来航するようになりました。1834年にスペインは正式にマニラを開港し、ガレオン貿易は終了して砂糖などのプランテーション主体の産業となりました。
マラテ教会
イギリスの東インド会社は武力でマニラを占拠する事件が起こり、イギリスはこの教会を占領したときの本拠地としました。
ビノンド教会
マニラ経済は華僑に握られるようになり、中国商人が居住して教会が建てられるなど国際的な交易都市として繁栄しました。