縄文時代の巨大集落と祭祀施設跡

縄文時代の人びとは、集落を形成して狩猟採集で生活していました。水産資源が豊富な内湾や河口に近く、落葉広葉樹の森が広がる丘陵には三内丸山遺跡の巨大集落が形成されました。狩猟採集して生きる糧を得ていた縄文人たちは自然を崇拝し、青森平野を一望できる丘陵に祭祀や儀礼を行う環状列石を配した小牧野遺跡を形成しました。
縄文時代のはじまり
縄文時代は今から約13000年前から2300年前まで10000年以上続いた時代です。縄文時代は弓矢や土器が発明され、採集した木の実などの植物や捕らえた獲物を煮炊きするようになりました。人びとは集落を形成して竪穴式住居に住み、食べた貝殻や獣の骨などを貝塚に捨てました。

竪穴式住居
地面を掘り込んで作られた縄文時代の家で中央には炉が設けられています。一般的には茅葺屋根を想像しますが、実際の形は定かではありません。

縄文時代の生活
縄文時代の人びとは定住して集落を形成するようになり、黒曜石で武器をつくり、土器を発明して狩猟採集した食べ物を煮炊きしました。
縄文時代の環境
1万年以上続いた縄文時代は、弥生時代から現在までの期間を遥かに超える長期間に及びました。現在よりも気温が2~3度高く、陸奥湾は現在よりも内陸まで入り込んで海の幸に恵まれたほか、森が広がり山の幸も調達しやすい環境にありました。水稲栽培が伝来した弥生時代においても続縄文時代が続くことから、食料調達に困ることはありませんでした。

黒曜石の石槍
縄文時代の初めに狩猟を行う道具として武器が発明され、刃先に使われる黒曜石は北海道や長野県から入手していました。

ヒスイの大珠
各地にあるムラと交易を行い、新潟県糸魚川のヒスイや岩手県の琥珀なども発掘されています。
三内丸山遺跡の巨大集落跡
縄文時代前期から中期にかけて人が生活していた三内丸山遺跡は、広さ42ヘクタールに500人あまりが住んでいたと考えられています。中央には大型掘立柱建物や大型竪穴建物があり、貫通した3本の道路の両側には土坑墓のほか石で囲まれた環状配石墓が設けられました。人びとが居住した竪穴建物の跡は550棟が確認されており、大きなものでは幅15メートルあります。
大型掘立柱建物と大型竪穴建物
集落の中央に置かれた大型掘立柱建物は、高さ14メートル、柱の太さは1メートルあります。建物の用途は不明ですが、柱3本が向き合う方位が夏至の日出と冬至の日入に一致していることから、祭祀用や漁労に従事するために海の干満を観察した施設と考えられています。長さ32メートルの大型竪穴建物は、一般的な竪穴住居の20倍もあり、2階建又は3階建とも考えられています。
縄文尺
縄文人たちは縄文尺と呼ばれる35センチを長さの単位として使用していたとされています。大型掘立柱建物や大型竪穴建物の柱の穴の間隔は約4.2メートルに統一されており、これらは35センチの倍数にあたります。建物の建築を指揮した人は、統一した長さを使用するなど専門的な知識を備えていました。

三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は今から5500年前の縄文時代前期に形成されました。世界的には四大文明の一つメソポタミア文明と同じ時期にあたります。

土坑墓
ムラを貫通している3本の道路の両側には土壙墓や環状配石墓が設けられ、人が亡くなると葬るようにしていました。

大型掘立柱建物
マンションの5階に相当する高さがある建物で、柱の地面に接する部分は火で焦がされていて腐りにくくする工夫が施されていました。

大型竪穴建物
およそ200人が入れるスペースがあるため、冬季の作業小屋としての役割や集会場として使われたと考えられています。
三内丸山遺跡の食文化と衰退
深い森に囲まれた三内丸山遺跡の人たちは、季節の植物や魚や野獣などを食べて生活していました。安定して食料を確保するため、自生していたブナやコナラの森を切り開いて栗林を整備しています。そのままでは毒性があるニワトコを使い、クワやキイチゴの果実を発酵させて果実酒が作られていました。
三内丸山遺跡の衰退
三内丸山遺跡の人びとは狩猟採集を営んで生活していましたが、気候変動による急激な寒冷化で生活が難しくなりました。気温が3~4度下がり植林していた栗が育ちにくくなり、海面低下で海が遠のいて食料の調達が難しくなりました。こうして人びとは各地に散らばるようになり、ムラは衰退して消滅していきました。

南盛土
縄文時代のゴミ捨場で、土器のかけらなどの生活品のほか、タコやイカの口器、カニの爪、フグの骨、ウニの棘などの食べ残しも出土しています。

掘立柱建物
縄文時代にも高床式の建物があり、火を使用した形跡が無いことから、食料の備蓄用に使われていたと考えられています。
小牧野遺跡の祭祀施設跡
およそ4000年前の縄文時代後期に造られた小牧野遺跡は、竪穴住居や貯蔵施設の生活空間のほか、直径55メートルある環状列石(ストーンサークル)がつくられました。環状列石の周辺からは100基を超える土坑墓が発見され、祭祀に使われたと考えられる三角形岩盤や土器も発見されています。
縄文時代の土木工事
小牧野遺跡は、緩やかな斜面を削り平坦に形成する大規模な土木工事が行われました。整地した土地には1キロほど離れた荒川から石を運び、直径3メートル、29メートル、35メートルの三重の輪として並べ、弧状列石や直線状列石が配され、その最大直径は55メートルにも及びます。

小牧野遺跡
指導者が精度の高い完成図を基に工事を指揮したと考えられています。人びとは協力して斜面を切り崩して整地し、河原から石を運搬しました。

小牧野遺跡
荒川から運ばれた石は3千個近くにのぼり、490キロの巨石もありました。河原に近い遺跡北部には石の運搬で踏み固められた地層が発見されました。
小牧野式配石の環状列石
小牧野遺跡の環状列石は石の並べ方に特徴があり、小牧野式配石と呼ばれています。石を縦に置き、その両隣に平らな石を直角に置いて、また縦に石を置いていくことを繰り返して環状列石ができています。環状列石の周辺にある土坑墓は、土葬して白骨化した骨を取り出し、その骨を甕棺土器に入れて再び地中に埋葬する再葬によるものです。

小牧野遺跡
遺跡には総重量27トンに及ぶ3000個近い石が環状に配置されており、埋葬や祭祀に関係した縄文人の祈りの場と考えられています。

小牧野式配石
石を縦に置き、その両隣に平らな石を直角に置いて、また縦に石を置いていくことを繰り返す小牧野式配石により環状列石を作りました。