津軽為信に始まる弘前藩

南部氏から独立して津軽統一を果たした津軽為信は、天下人との外交により弘前藩の礎を築きました。蝦夷地警備などの功績により大きな藩に格上げされましたが、気候の厳しい寒冷地にあるため天明の飢饉などの大災害で甚大な被害を受け、大きな百姓一揆を招きました。
奥羽の梟雄・津軽為信
大浦為信は南部氏の支族である久慈氏から派生した一派で、大浦城を構えていました。主君・南部晴政は長女の婿に石川信直を迎え入れましたが、元亀元年(1570年)に南部晴継が生まれたことで家中は混乱しました。元亀2年(1571年)に大浦為信は石川城を攻め落とし、石川信直の父・石川高信を討ち取りました。天正3年(1575年)に滝本重行が守る大光寺城を攻略すると、天正6年(1578年)に浪岡城を襲撃して浪岡顕村を滅ぼし、天正7年(1579年)に津軽を追われた旧領主たちを六羽川で退けました。
弘前藩の立藩
天正10年(1582年)に南部晴政の跡を継いだ南部晴継が早世して石川高信が跡を継ぐと、天正13年(1585年)に大浦為信は油川城、田舎館城などの南部氏の諸城を攻略して津軽地方をほぼ制圧しました。天正17年(1589年)に安東実季と和睦して上洛に成功すると、石田三成の取次により豊臣秀吉から所領を安堵され津軽姓を称するようになりました。関ヶ原の戦いで三男・津軽信枚とともに東軍に加担して存続が許され、石田三成の三男・重成と三女・辰姫を保護しました。慶長8年(1603年)に着手した弘前城の築城は、津軽信枚に受け継がれて完成しました。

津軽氏城跡(堀越城跡)
文禄3年(1594年)に大浦為信が改修して大浦城から居城を移し、慶長16年(1611年)に津軽信枚が高岡城(後の弘前城)へ移るまで津軽氏の居城でした。
弘前の名称の始まり
津軽為信の跡を津軽信枚が継ぎますが、長男・津軽信建の遺児熊千代派と家中が二分する御家騒動となりました。慶長14年(1609年)に藤崎堰を造営した際、堰守太郎左衛門が自ら水中に身を投じて人柱となり、堰が決壊するのを防ぎました。慶長18年(1613年)に南溜池が造営され、元和元年(1615年)に長勝寺構えが完成したことで高岡城下町が形作られ、寛永4年(1627年)の落雷で天守が焼失したことを受け、慈眼大師天海の勧めで高岡から弘前へと名称が変更となりました。

津軽氏城跡(弘前城跡)
寛永4年(1627年)に天守のシャチホコに雷が落ちて火災が発生し、3層目の火薬庫が大爆発を起こしました。翌年に魔除けのために高岡城から弘前城に名称を変更しました。

最勝院
天文元年(1532年)に弘信僧都が開創したと伝わる寺院です。津軽信枚が弘前城鬼門鎮守である弘前八幡宮の別当寺院として田町に遷しました。

長勝寺(津軽家墓所)
享禄元年(1528年)に大浦盛信が種里に創建した寺院で、慶長15年(1610年)に弘前城の裏鬼門を封じるために現在地に遷されました。

禅林街(禅林三十三ヶ寺)
津軽為信の軍師・沼田祐光(面松斎)が風水の観点から弘前城の裏鬼門に集めた寺院街で、弘前城の南西方面を守備する役割から長勝寺構と呼ばれました。
新田開発と産業の興隆
寛永8年(1631年)に3代藩主となる津軽信義は、家中をまとめることができず船橋騒動が起こりました。津軽新田の開発や牧場建設などの功績もありますが、奇行や乱行も多かったと伝わります。明暦2年(1656年)に4代藩主となる津軽信政は、弘前藩の名君として知られています。津軽信政は津軽新田の開発や岩城川治水を行い、貞享元年(1684年)には貞享の総検地を行いました。山林制度の整備、屏風山の植林、織物業、紙漉行、塗業などの産業の興隆も行い、弘前藩の基盤を築きました。

りんご公園
リンゴ園が広がる森は津軽忍者の訓練場と言われ、津軽信政の時代に陰流忍術の使い手・中川小隼人が十数名で忍術の稽古を行いました。

最勝院五重塔
寛文7年(1667年)に3代藩主・津軽信義の命で造営されました。国の重要文化財のうち日本最北端に位置する東北一の美塔となりました。

貞昌寺庭園
4代藩主・津軽信政に召抱えられた京都の数寄者・野本道玄が手掛けたとされる一文字の庭を前身として修復された縮景式築山泉水庭園です。

高照神社
津軽信政は自分の廟所を現在の高照神社にするように遺言を残して亡くなり、5代藩主・津軽信寿が遺言に則り高照神社を創建して祀りました。
度重なる大災害
明和・安永・天明年間は、全国的に飢饉や大火、洪水や疫病などの天災が相次ぎました。明和3年(1766年)の大地震、安永4年(1775年)の疫病の流行、安永7年(1778年)から続いた岩木川の洪水、天明3年(1783年)の岩木山の噴火と天災が相次ぎ、津軽地方は未曽有の大凶作に見舞われました。特に天明3年の大飢饉では、弘前藩の約3分の1にあたる8万人が餓死したとも言われています。
弘前藩の寛政の改革
8代藩主・津軽信明は、津軽多膳を据家老として藩政改革に着手しました。天明4年(1784年)に武士の帰農を図る藩士土着令を出し、寛政3年(1791年)に勘定奉行に登用された赤石安右衛門と菊池寛司が強力に推進しました。9代藩主・津軽寧親もこの政策を引継ぎましたがトラブルも多く、寛政10年(1798年)には撤廃されました。

栄螺堂
天保10年(1839年)に豪商・中田嘉平衛が寄進した八角形の堂宇で、海難犠牲者や天明・天保の大飢饉で餓死した人びとを弔うために建てられました。
北方警備と民次郎一揆
寛政4年(1792年)にラクスマンが来航すると、宜諭使警備の幕命を受けていた弘前藩は箱館や浦河警備を行うこととなり、文化元年(1804年)に永久蝦夷地警備を下命されました。寒冷地の蝦夷地警護の出兵は多くの犠牲を伴い、領内も凶作で不穏な空気が漂いました。寛政8年(1796年)には弘前藩家老・津軽永孚の尽力により弘前藩の藩校・稽古館が創設されて教育の普及が図られますが、文化10年(1813年)に藩内各地で起きた百姓一揆は、民次郎一揆と呼ばれる大一揆に発展しました。
戊辰戦争と弘前藩の廃止
慶応3年(1867年)に徳川慶喜が大政奉還を行い王政復古の大号令が発布されますが、翌年に鳥羽伏見の戦いが起こりました。会津・庄内追討の命が発せられると、弘前藩は奥羽越列藩同盟に加盟して国境を閉鎖しました。弘前藩士・西舘平馬は神戸でアメリカ汽船を調達して急ぎ弘前に戻ると、国内の情勢を伝えて藩論を統一し、藩主・津軽承昭は奥羽越列藩同盟を脱退しました。弘前藩は新政府方として箱館戦争に参加し、その功により津軽承昭は藩知事となりました。明治4年(1871年)の廃藩置県により弘前藩は廃止されて弘前県となり、さらに青森県になりました。