弘前市

弘前市は青森県西部に位置する都市で、青森市、八戸市に次ぐ県内3番目の規模を誇ります。城下町として津軽地域の政治、経済、文化の中心都市として発展してきました。東に八甲田連峰、西には岩木山、南西には白神山地を擁し自然に恵まれた環境にあります。
概要
- 面積
- 524.20km2
- 人口
- 165,877人(2022年2月1日)
- 市の木
- りんご
- 市の花
- さくら
- 地図
特集
歴史
南部氏を独立した津軽為信は、津軽地方を制圧して高岡城の築城を始めました。2代津軽信枚のときに天守が落雷で焼失したことを受けて、慈眼大師天海の意見で弘前へと名称が変更となりました。明治時代に弘前は軍都となりますが、終戦により学都へと変化しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みがあり、大森勝山遺跡から旧石器時代後期の石器が出土し、縄文時代晩期の環状列石が見つかりました。十腰内遺跡からは線で描かれた文様を主体とした土器やイノシシ型の土製品が発見されています。弥生時代前期の砂沢遺跡では最北かつ東北最古の水稲農耕集落が見つかり、湯の沢遺跡には集落跡が出土しています。

大森勝山遺跡
縄文時代晩期の環状列石(ストーンサークル)が残される遺跡です。冬至に岩木山山頂に太陽が沈むことから祭祀や儀式が行われていたと考えられています。
古墳時代、飛鳥時代
特に記録は見つけられませんでした。
奈良時代、平安時代
斉明天皇元年(655年)に津苅蝦夷6人に冠位を授けた記録が残されています。平野部には集落跡が数多く発見され、岩木山麓では大規模な製鉄が行われていました。阿倍比羅夫や坂上田村麻呂などの蝦夷討伐に関わる伝説が残り、宝亀11年(780年)に創建した岩木山神社は、延暦19年(800年)に坂上田村麻呂が下居宮を建立して岩木山頂の社殿は奥宮とされました。

岩木山神社
延暦19年(800年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が岩木山山麓に下居宮を建立した社殿は、寛治5年(1091年)に現在の地に奉遷されました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治5年(1189年)に奥州藤原氏が滅亡して大河兼任が大規模な反乱を起こしました。反乱が鎮圧されると関東の有力御家人が地頭となり、現地の武士が地頭代官として登用されました。北方世界との交易の統制を任せられた安東氏は、十三湊を拠点として日本海交易で大きな勢力を保ちました。
室町時代、安土桃山時代
南北朝の動乱が終息すると、三戸南部氏が津軽地方に進出して安東氏と抗争となりました。延徳3年(1491年)に種里に入部した南部光信は、延徳3年(1491年)に種里城を築城し、文亀2年(1502年)には大浦城を築城して大浦氏を称するようになります。大浦為信は南部高信の居城・石川城を攻略したのを皮切りに津軽一円を領有し、天正18年(1590年)に豊臣政権から領有権を認められて津軽氏を称し、文禄3年(1594年)に堀越城に本居を移しました。

津軽氏城跡(堀越城跡)
文禄3年(1594年)に大浦為信が改修して大浦城から居城を移し、慶長16年(1611年)に津軽信枚が高岡城(後の弘前城)へ移るまで津軽氏の居城でした。
江戸時代
弘前藩2代藩主・津軽信枚は、慶長16年(1611年)に堀越城から高岡城(弘前城)に本拠を移しました。寛政4年(1792年)に藩財政の困窮を解決する方策として、藩士を在方へ移住させて直接生産活動に従事させる藩士土着令が出されました。大量の家臣が在方への移住を命じられ、弘前城下町は閑散としましたが、寛政10年(1798年)の土着廃止令により、城下に藩士たちが戻り町が復活しました。

津軽氏城跡(弘前城跡)
寛永4年(1627年)に天守のシャチホコに雷が落ちて火災が発生し、3層目の火薬庫が大爆発を起こしました。翌年に魔除けのために高岡城から弘前城に名称を変更しました。

最勝院
天文元年(1532年)に弘信僧都が開創したと伝わる寺院です。津軽信枚が弘前城鬼門鎮守である弘前八幡宮の別当寺院として田町に遷しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で弘前県が生まれ、弘前県は青森県に改称されました。明治5年(1872年)に青森県初の私学校として東奥義塾が開校し、弘前はキリスト教布教の拠点となりました。明治27年(1889年)に弘前と青森間に鉄道が開通し、明治31年(1898年)に第八師団司令部が設置されました。軍都として発展を遂げましたが、終戦後に軍事施設は解体されて多くが学校施設に利用されました。
リンゴの生産
明治8年(1875年)に内務省勧業寮からリンゴの苗木3本が配られ、青森県庁に植えられました。武士の失業対策としてリンゴ生産が進められ、青森りんごの開祖と称される菊池楯衛が弘前に接木や苗木育苗などを弘前に伝えました。菊池楯衛に師事した外崎嘉七は害虫からリンゴを守るための袋掛けなどを考案し、青森りんごの神様と呼ばれるようになりました。青森のリンゴは戦争で荒廃して生産量日本一から陥落することもありましたが、青森りんご復興の祖と云われる渋川傅次郎が青森県りんご協会を設立してリンゴ生産を再興しました。

旧第59銀行本店本館
明治12年(1879年)に弘前藩の御用大工である名匠・堀江佐吉氏が、青森県初の銀行・第五十九国立銀行として手掛けたルネサンス風建造物です。

旧東奥義塾外人教師館
明治33年(1900年)に建築された洋館で、弘前藩の御用大工である名匠・堀江佐吉が手掛けました。東奥義塾に招いた海外人教師の住居として利用されました。

旧弘前市立図書館
明治39年(1906年)の日露戦争の戦勝記念として、実業家・斎藤主や堀江佐吉などの寄付で建てられました。現在は弘前市郷土館の施設として一般に公開されています。

日本基督教団弘前教会
明治8年(1875年)に東北最古のプロテスタント教会として弘前公会が設立し、明治39年(1906年)に桜庭駒五郎の設計により斉藤伊三郎が建築を担当しました。

旧陸軍第八師団長官舎
大正6年(1917年)に建造された建物で、太平洋戦争後にアメリカ軍政官の官舎を経て弘前市長公舎になりました。現在はスターバックスコーヒーの店舗として使われています。

弘前昇天教会
リムリック師が設立した日本聖公会弘前昇天教会は、大正10年(1921年)に立教大学の学長を務めたジェールス・M・ガーディナーの設計で建替えられました。

旧藤田家別邸と藤田記念庭園
日本商工会議所の会頭を務めた弘前市出身の藤田謙一が、大正10年(1921年)に別邸を構えるときに東京から庭師を招いて造らせた江戸風な景趣の庭園です。

りんごの乙女像
弘前市が青森放送株式会社から土地を譲り受け、昭和40年(1965年)にリンゴのテーマパークとしてリンゴ公園が開設しました。
大石武学流庭園
大石武学流庭園は、江戸時代末期から近代にかけて津軽地方に広まる作庭技法です。大きな自然石をたくさん据えて、豪快に石を組み合わせる特徴があります。中央には池や枯山水を配し、その奥の築山に滝を表現します。目前には神や仏が宿る礼拝石を設置しています。

瑞楽園
高杉組の庄屋を務めた豪農・対馬家の所有物で、明治38年(1905年)に大石武学流三代・高橋亭山が改庭し、昭和11年(1936年)に池田亭月と外崎亭陽が増庭しました。

須藤氏庭園(青松園)
医師であり地域を代表する名士・須藤家の依頼で、大石武学流宗家の小幡亭樹が手掛けました。昭和11年(1936年)に秩父宮雍仁親王が昼食休憩を取られています。(非公開)

對馬氏庭園
昭和3年(1928年)に旧家の屋敷を移築して、大石武学流宗家の池田亭月が作庭を開始し、外崎亭陽が手を加えたとされるリンゴ農家の庭園です。(非公開)

成田氏庭園
昭和7年(1932年)に大石武学流宗家・池田亭月により作庭されました。小規模ながら大石武学流庭園の作庭規範を典型的に示しているとされます。(個人所有)