最上氏の繁栄と衰退
斯波氏を祖とする最上氏は、一族を各地に廃止て地盤を固めました。奥羽の驍将と呼ばれた最上義光は、謀略の限りを尽くして最盛期に導きましたが、家督を継いだ息子が急死を遂げて孫の最上家信が若くして家督を継ぐと不満を抱いた家臣団は対立して最上騒動に発展し、重く見た幕府は最上家を改易処分として最上氏は山形を去りました。
斯波兼頼と山形城
足利尊氏と同じ清和源氏の流れをくむ斯波兼頼は、八幡太郎で知られる源頼家から11代目の子孫にあたり、南北朝時代に北朝方として延文元年(1356年)に羽州探題として山形に入りました。斯波兼頼は延文2年(1357年)に山形城を築城して政治の拠点とし、山寺立石寺、六椹八幡神社、熊野神社などを修復再建て民心の安定を図りました。
最上氏の誕生
正平23年(1367年)に鎌倉公方足利基氏と将軍足利義詮が死去すると、南朝方の新田義宗ら一族が越後国で蜂起しました。これに呼応して南朝方が各地で挙兵すると、斯波兼頼は南朝方の最大勢力である寒河江大江氏と漆川で戦いになりました。斯波兼頼は南朝方を駆逐して内乱を収めると、最上姓に改めて子供たちを天童家、黒川家、高櫛家、蟹沢家、成沢家として各地に配置しました。
本丸一文字門
本丸には2つ門があり、そのうち大手にあたる門です。門の内部は枡形になり敵の進入を食い止める役目がありました。
二ノ丸濠
山形城は三重の堀と土塁で守られていました。二ノ丸濠は1周2.3キロあり東大手門が復原されています。
伊達氏の台頭と最上氏の危機
最上氏は南北朝時代に敵対していた寒河江大江氏と姻戚関係を持つなど関係を修復させて出羽国で勢力を維持していましたが、置賜郡(米沢市)の進出を目指す伊達氏は、至徳2年(1385年)に長井荘の永井廣房を攻めてこれを滅ぼして米沢を本拠としました。伊達稙宗は、文明11年(1479年)に最上川に沿い村山郡に侵入して寒河江城を攻撃しますが、寒河江大江氏の奮戦によりこれを撃退しています。
伊達氏の監督下
永正11年(1514年)の伊達稙宗の侵攻で上山城と長谷道城が襲撃され、最上義定は寒河江大江氏と応戦しましたが、大江政周らが戦死する大敗を喫して山形城を逃れて中野城へ退きました。翌年の天正12年(1515年)に伊達稙宗と最上義定は和睦し、伊達稙宗の妹が最上義定に嫁ぎました。天正17年(1520年)に最上義定は嫡子がいないまま亡くなり、山形城は伊達氏の監督下に置かれることになりました。上山城主里見義房ら庶流が伊達氏に対して反旗を翻しますが、伊達稙宗に鎮圧されています。
山形城本丸跡
山形城には天守閣は無く本丸御殿が置かれました。本丸御殿は領主が住む最重要施設でした。
山形城井戸跡
最上期につくられた井戸跡で、金箔鯱瓦の鯱の尾の部分が出土しています。
最上氏の独立
最上庶流の執拗な抵抗により、大永2年(1522年)に最上一族で中野義清の二男義守が最上家宗家の後嗣になりますが、最上氏は依然として伊達氏の支配下にあり最上庶流の執拗な抵抗は続けられました。天文11年(1542年)に伊達稙宗と長男伊達晴宗の対立が表面化して天文の乱が起こると、最上義守は伊達稙宗を援け永井郡を制圧し、伊達晴宗が優勢になるとこれを寝返り伊達稙宗の支配下から抜け出しました。
最上義光の台頭
元亀元年(1570年)に当主最上義守と嫡男最上義光が争うようになると、これに乗じた伊達輝宗は最上領内に侵攻しました。天童頼貞、白鳥長久、蔵増頼真、延沢満延らが伊達輝宗に同調する中、最上義光はこれらの攻勢を退けて伊達氏から完全な独立に成功しました。
山形城空堀
石垣と土塁が交互に配されます。
本丸一文字門枡形土塀
厚みのある土塁が巡らされています。
羽の驍将最上義光
最上義光は謀略の限りを尽くして天正8年(1580年)に里見民部を調略して上山満兼を殺害し、翌年に小野寺氏の重臣鮭延秀綱を調略しました。天正11年(1583年)に東禅寺義長を調略して大宝寺義氏を急襲して自害に追い込み、翌年には白鳥長久を山形城で誅殺して寒河江高基を攻め滅ぼしました。さらに延沢満延、東根頼景を調略して宿敵である天童頼澄を追い出したことで村山郡を支配下に置きました。
山形藩57万石
最上義光は、天正14年(1586年)に鮭延城を巡り小野寺義道と争うようになり、さらに庄内の大宝寺義興を攻略したことで上杉家と争うようになりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、北の関ケ原と呼ばれた慶長出羽合戦で直江兼続の猛攻を凌ぎ、その功績から57万石の領地が認められて山形藩初代藩主となりました。
山形城
姫路城よりも広い全国有数の規模の平城です。
最上義光
謀略を得意として最上氏を最盛期に導き、奥羽の驍将と呼ばれました。
最上騒動
晩年の最上義光は、伊達家に近い長男最上義康とは不仲で、徳川家に近い次男最上家親に家督を譲ろうと考えていました。慶長16年(1611年)に最上義光が謀殺したとされる最上義康暗殺事件で家督は最上家親が継ぐことになりますが、のちに義康が和解を望んでいたことを知る最上義光は失意のうちに慶長19年(1614年)に死去しました。家督を引き継いだ最上家親は豊臣家に親密な弟の清水義親を誅殺し、大阪冬の陣や夏の陣では江戸城留守居役を務めて幕府に忠誠を示しました。しかし、2年後の元和3年(1617年)に江戸で猿楽を見ながら急死する毒殺事件が起こり、家督は息子の最上家信(後の義俊)が継ぐことになりました。
最上家の改易
最上家信は若年かつ凡庸で、最上義光四男の山野辺義忠の擁立を画策する派と家信を擁護する派に分裂し、激しい内紛が起きました。元和8年(1622年)に松根光広は、家親の死は楯岡光直(義光の弟)による毒殺であると老中酒井忠世に訴えました。酒井忠世は調査するも証拠を得られず、最上領は召し上げたうえで最上家信に6万石を与え、家信成長後に本領に還すことにしました。この決定に不服な山野辺義忠と鮭延秀綱は幕府に不服を申し述べ、この事態を重く見た幕府は、元和8年(1622年)に山形藩最上家を改易しました。この改易は、豊臣秀頼や松平忠輝に次ぐ石高規模の改易となりました。
最上旧領
最上家が改易されると山形には譜代大名の鳥居忠政が磐城平藩から移封しますが、広大な最上旧領は分割され、鳥居忠政の婿酒井忠勝が信濃松代藩から移封して庄内藩を立藩し、鳥居忠政の義弟戸沢政盛が常陸松岡藩から移封して新庄藩が立藩しました。鳥居忠政は山形城の大規模改修を行いましたが、子供に恵まれずに2代将軍徳川秀忠の子の保科正之が入封し、堀田氏、秋元氏、水野氏などに移り変わりながら幕末を迎えました。
最上騒動関係者の末路
改易された最上義俊は、近江国大森1万石が与えられて存続しましたが、跡を継いだ最上義智が幼少のため五千石に減らされて大名ではなくなりました。最上騒動の張本人である山野辺義忠は、備前岡山藩主池田忠雄のもとに追放されましたが、寛永10年(1633年)に赦免されて常陸水戸藩初代藩主の徳川頼房の元に派遣されました。山野辺義忠は1万石と家老職を与えられ、第2代藩主徳川光圀の教育係も務めて子孫も家老職を務めました。また、松根光広の子孫は伊予宇和島藩伊達家の家老として続き、子孫は幕末に伊達宗城を補佐した松根図書や俳人の松根東洋城を輩出しています。
二の丸南大手門跡
表玄関にあたる場所で屈強な石垣で囲われた枡形虎口の構造をしています。
山形城石垣
打ち込み接ぎで修復された石垣です。
山形城二の丸大手門
は一ノ門(多聞櫓門)と二ノ門(高麗門)で構成された枡形門で、藩主の威厳を示す役割がありました。
山形城 一文字門
鳥居忠政が山形城に入り城郭を大改修し、二ノ丸の堀や石垣が整備されました。