山形市
山形市は山形県中央東部の山形盆地の南部に位置し、奥羽山脈や西部丘陵地に山形盆地が形成されます。市街地は最上川水系の馬見ヶ崎川と立谷川の扇状地にあり、緑と水の豊かな自然環境を形成しています。市域には樹氷と温泉で名高い蔵王や俳聖松尾芭蕉ゆかりの山寺などがあります。
概要
- 面積
- 381.30km2
- 人口
- 245,636人(2022年2月1日)
- 市の木
- ナナカマド
- 市の花
- ベニバナ
- 地図
特集
最上氏の繁栄と衰退
羽州探題として派遣された斯波兼頼は最上氏を名乗り地盤を固めました。伊達家の監督下に置かれますが、やがて独立して奥羽の驍将最上義光が最盛期に導きました。
歴史
縄文時代から人が定住を始め、農耕を営んだ人びとの中から有力者が生まれて多くの古墳が造営され、平安時代は出羽三山信仰が隆盛して寺院が営まれるようになりました。羽州探題となる斯波氏は最上氏と名乗るようになり、最上義光が山形城を拠点に最盛期を築きました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
馬見ヶ崎川の扇状地などに多くの縄文遺跡が造営され、山形県庁前の熊ノ前遺跡からは縄文時代中期の竪穴住居跡や土器・石器がたくさん発見され、扇端部にある山形西高敷地内遺跡は県内で最も多くの住居跡が発見されました。多くの遺跡は幾度となく洪水被害に遭いながら縄文時代から平安時代までの長い間、集落を形成していたと言われます。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代には平野部を開墾し大規模な水田が営まれるようになり、食料を倉庫に蓄えていました。山形市の南西部には大之越古墳、谷柏古墳群、菅沢古墳群など多くの古墳が造営されました。
菅沢古墳二号墳
菅沢丘陵の中腹に造営された古墳で、東北地方で最大の円墳です。古墳時代中期の5世紀後半に造営さました。
高原古墳
6世紀末から7世紀前半に造営された円墳と推定される古墳で、山形県第1号の史跡となりました。
谷柏古墳群
古墳時代後期の7世紀に造営された25基の古墳が分布しています。古墳からは副葬品として鉄剣などの鉄製品が出土しています。
嶋遺跡
建物跡や木器・土器・装飾品・植物の種子などが発見され、武具や馬具が出土していることから、この地方の有力者が住んでいたと考えられています。
奈良時代、平安時代
8世紀になると出羽国最上郡が設置され、最上郡には宿駅が設けられました。出羽三山信仰は民衆から信仰を集めるようになり、9世紀には天台宗の慈覚大師が山寺立石寺や西蔵王を開山しました。
山寺立石寺
貞観2年(860年)に天台宗の僧慈覚大師円仁は山寺立石寺を開山しました。慈覚大師円仁は西蔵王の一体である瀧山を開山したとも伝えられます。
蔵王
蔵王や月山、湯殿山、羽黒山で発展した山岳信仰は出羽三山信仰と呼ばれ、これらの山は霊場として崇敬を集めました。
鎌倉時代、南北朝時代
奥州藤原氏を討伐した源頼朝は、文治5年(1189年)に庄内大泉荘に武藤氏平を地頭に任命しました。武藤氏平は地名から大泉姓を称して、5代大泉長盛が鶴岡市大宝寺を中心として大宝寺姓を名乗るようになりました。
室町時代、安土桃山時代
延文元年(1356年)に羽州探題として奥州大崎より入部した斯波兼頼は、山形城を築いて城下町を整備していきました。斯波兼頼は内乱を収めて最上氏を称するようになり、各地に子供たちを配して支配を盤石なものにしました。やがて伊達氏の台頭により最上氏は監督下に置かれますが、伊達氏の天文の乱に乗じて独立しました。奥羽の驍将と呼ばれた最上義光は、謀略の限りを尽くして伊達氏、上杉氏などの強国に囲まれながら戦乱を潜り抜け、山形藩57万石の大名に導きました。
山形城跡
最上義光が城郭を拡大しました。
江戸時代
最上義光の跡を継いだ2代藩主最上家親が急死すると家督相続で家臣団が対立して最上騒動が起こりました。この騒動で最上氏はわずか2代で改易され、譜代大名の鳥井忠政が山形藩主となりました。山形藩主は鳥居家から保科氏、堀田氏、秋元氏などに変わりますが、そのたびに衰微して最後の藩主水野忠弘の時代には5万石の小藩に過ぎない存在となりました。
七日町御殿堰
山形五堰と呼ばれた農業用水堰の一つです。最上氏が滅亡して譜代大名の鳥居忠政が山形城に入り、農業用水堰を整備しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治9年(1876年)に山形県が成立すると、明治10年(1877年)に県庁舎が設立されました。明治44年(1911年)の山県市北大火により県庁舎や県会議事堂など市街地の大部分が全焼し、大正2年(1913年)には馬見ヶ崎大洪水に見舞われて被害を受けました。度重なる災害に見舞われましたが、昭和2年(1927年)に全国産業博覧会が開催されました。
旧山形県会仮議事堂
明治16年(1883年)に県会議事堂が完成するまで、寶幢寺本堂を仮議事堂として県政が進められました。
旧済生館本館
明治11年(1878年)には山形県立病院として済生館が建てられるなど近代化が進みました。
山形県旧県庁舎(文翔館)
明治44年の山形市北の大火で全焼し、大正5年(1916年)に再建されました。現在は山形県郷土館(文翔館)として利用されています。
旧県会議事堂
旧県庁舎と連結する旧県会議事堂は煉瓦造で正面に議長室などを配する2階建です。背後に公会堂を兼ねた平家建の議場があります。