大月市

大月市は山梨県の東部に位置し、市域の9割弱が森林に覆われています。北部に小金沢山が鎮座し、南部に山中湖を源とする桂川や笹子川が流れています。中央高原型の気候で、夏は暑く冬は寒くて空気が乾燥します。日本三奇橋のひとつ猿橋が名所で、人形浄瑠璃の笹子追分人形芝居が伝統芸能として受け継がれています。
概要
- 面積
- 280.25km2
- 人口
- 21,808人(2022年2月1日)
- 市の木
- 八重桜
- 市の花
- 山ゆり
- 地図
特集
歴史
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
袴着遺跡のローム層から荒割りの片石器と凹痕を有する石器、石皿風の石器が発見されました。縄文時代の遺跡は80カ所以上あり、桂川と笹子川の河川沿いに広がる河岸段丘に宮谷白山遺跡などの集落が形成しました。縄文時代晩期から遺跡は減少し、弥生時代以降の遺跡は極めて少ないです。
古墳時代、飛鳥時代
現在は消滅しましたが、宮谷金山古墳や鳥沢金山古墳から鉄鏃などが出土しています。7世紀に築造された子の神古墳は、大月市内で唯一墳丘が残されている円墳です。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して都留郡に属し、推古天皇の時代に百済から来た志羅呼が猿橋を架橋した伝説が残されています。岩殿山などで修験道が盛んとなり、修験道山岳寺院である円通寺が創建しました。波加利荘が成立すると、武蔵七党のひとつ横山党の一族である古郡氏が支配下としました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府が成立すると、小山田行重が田原郷を与えられて土着しました。建暦3年(1213年)に侍所の和田義盛が起こした和田合戦で、和田氏に与した古郡氏が滅ぼされ、所領が武田信光や島津忠久に与えられました。
室町時代、安土桃山時代
応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に与した小山田氏は猿橋岩殿で敗れ、翌年には鎌倉公方・足利持氏が武田信長追討のため一色持家を派遣し、猿橋の地で戦いとなりました。永正4年(1507年)の武田家家督争いで反信虎派に付いた小山田氏は相次ぐ戦いで敗戦を繰り返し、永正6年(1509年)に武田信虎の郡内侵攻で武田氏へ従属しました。大永4年(1524年)に武田信虎と北条氏綱の戦いが起きました。
武田氏と小山田氏の滅亡
天正3年(1575年)の長篠の戦いで大敗した武田氏は大きく衰退していきました。天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐で国人衆たちは雪崩をうつように離反し、武田勝頼は長坂長閑の進言を容れて岩殿城へ退却しますが、岩殿城の小山田信茂が離反して武田勝頼は天目山で自刃して滅亡しました。小山田信茂も織田信長から警戒され、甲府善光寺で処刑されました。本能寺の変を機に甲斐国を統治した河尻秀隆が武田旧臣に討ち取られると、徳川家康と北条氏直の争奪の地となりました。

岩殿城跡
関東三名城と称される堅牢な山城です。築城年代は不明で、長らく小山田氏の詰城と考えられてきましたが、小山田氏の居館から離れているため武田氏直轄の城と考えられています。
江戸時代
関ケ原の戦いを経て、鳥居元忠の三男・成次が谷村城に入り谷村藩を立藩しました。五街道のひとつ甲州街道が整備されると、下鳥沢宿から黒野田宿まで12もの宿場町が整備され、富士講の参詣者や養蚕・絹織物の特産地として繁栄しました。寛永10年(1633年)に谷村藩主・秋元泰朝が五ヶ堰の開削をはじめ、寛文9年(1669年)に完成しました。天保7年(1836年)に森武七が指揮した農民一揆が甲斐一国規模に発展して天保騒動となりました。

猿橋
岩国の錦帯橋と木曽の棧とともに日本三奇橋のひとつに数えられます。橋脚を使わない長さ31メートルの木造橋で、両岸から張り出した四層のはねぎで支えられています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治35年(1902年)に大月駅が開業し、東京と甲府を結ぶ交通の要衝となりました。明治40年(1907年)に駒橋水力発電所が開業し、大正3年(1914年)に大野貯水池が完成しました。昭和20年(1945年)の大月空襲で都留高等女学校の女学生らが亡くなりました。昭和29年(1954年)に大月市が誕生しました。

