南巨摩郡

南巨摩郡は山梨県の南西端に位置し、糸魚川―静岡構造線が南北に走ります。西に主峰北岳から伸びる南アルプス連峰が広がり、森林や渓谷などの豊かな自然に恵まれます。釜無川と笛吹川が合流して日本三大急流の富士川となり中心を貫流します。西山温泉は飛鳥時代に発見されたと言われ、慶雲館は世界最古の温泉宿としてギネスに登録されています。
概要
- 面積
- 984.81km2
- 人口
- 32,200人(2021年11月1日)
- 含む町村
- 早川町、身延町、南部町、富士川町
- 地図
特集
歴史
甲斐国を支配した武田氏は、金材開発で軍資金を調達するとともに下部温泉を湯治場として利用しました。日蓮上人が草庵を構えたことで日蓮宗の総本山である身延山久遠寺が創建し、江戸時代に身延講と呼ばれる参拝者が増えて門前町を形成するとともに、七面山への参道にある赤沢宿が繁栄しました。角倉了以が富士川を開削したことで舟運が始まり、物流の拠点として鰍沢宿が栄えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
早川や富士川流域で縄文時代の人の営みが残されています。大明神遺跡では縄文早期末の条痕文土器や古墳前期のS字甕などが出土しています。御料平遺跡から縄文時代前期から中期の土器や配石遺構が見つかり、縄文時代後期から弥生時代にかけて白石西之宮平遺跡が営まれました。富士川の扇状地では水田が営まれたと考えられ、弥生時代から古墳時代にかけての最勝寺平野遺跡から火災住居が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
富士川流域には5 世紀代の法華塚古墳をはじめとする古墳群が分布しており、銅鏡や勾玉などの副葬品が出土しています。飛鳥時代には西山温泉が発見されたとされ、慶雲館は世界最古の温泉宿としてギネスに登録されています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立すると巨摩郡と八代郡に属し、奈良時代に孝謙天皇が奈良田に遷居した伝説が残されています。平安時代後期になると、甲斐源氏の祖にあたる加賀美遠光の三男・光行が南部を治めて南部氏を称しました。南部光行は源頼朝の奥州遠征を機に奥州に本拠を移しました。
鎌倉時代、南北朝時代
文永11年(1274年)に国波木井郷を治める南部実長の招きにより、日蓮上人が身延山に入山しました。弘安5年(1282年)に日蓮上人は療養と両親の墓参を兼ねて常陸国へと向かいますが、武蔵国池上で亡くなり身延山に祀られました。

日蓮上人草庵跡
文永11年(1274年)に日蓮上人が鷹取山の麓の西谷に構えた草庵跡です。弘安4年(1281年)に旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、身延山妙法華院久遠寺と命名しました。

日蓮上人廟所
御草庵跡のそばに立てられた日蓮上人の廟墓です。昭和17年(1942年)に石造りの八角塔が建てられ、塔の中に日蓮上人が入滅したときに建立された五輪の墓が納められています。
室町時代、安土桃山時代
武田家十代・武田信武の六男・義武が穴山に居を構えて穴山姓を名乗りました。大永元年(1521年)に今川氏の福島兵庫頭正成が甲斐国に侵攻し、大島で武田氏と激戦となりました。武田氏は保金山や黒桂金山などを開発して軍資金とし、下部温泉を湯治場として利用しました。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、その後に支配した織田信長が本能寺の変で討たれ、徳川家康が支配するようになりました。天正19年(1591年)には加藤光泰が入り、文禄2年(1592年)には浅野長政・長継の親子が受け継ぎますが、慶長5年(1600年)に再び徳川家康の支配となりました。

甲斐金山遺跡(中山金山)
甲斐国と駿河国の国境近くにある毛無山の中腹に位置する大規模な鉱山遺跡です。江戸時代まで採掘が行われ、77もの採掘坑が残されています。

真篠城跡
駿河国の国境近くにある山城で、甲斐国と駿河国を結ぶ駿州往還を抑えるため築城されました。武田信玄が築城を命じて原大隈守が警固したとされます。
江戸時代
慶長8年(1603年)に徳川義直に与えられてから親藩制をとり、宝永2年(1705年)から20年ほど柳沢氏の支配を経て、享保9年(1724年)から幕府の直轄領となりました。身延講と呼ばれる身延山久遠寺への参拝者が増え、久遠寺の参道は門前町として発展し、七面山への参道にある赤沢宿が栄えました。慶長19年(1614年)に京都の豪商・角倉了以が富士川を開削して舟運が始まり、鰍沢宿が富士川の舟運の拠点として栄えました。

徳川家康側室養珠院墓所
お萬の方は徳川家康の死後に落髪して養珠院と称しました。承応2年(1653年)に養珠院が江戸紀州藩で死去すると、紀州藩主・徳川頼宣は本遠寺に宝篋印塔を建てて菩提を弔いました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治2年(1869年)に誕生した甲府県は、明治4年(1871年)の廃藩置県で山梨県と改められました。近藤喜則が幕臣の豊島住作を招いて開校した聴水堂は、明治6年(1873年)に独立の教場や寄宿舎を持つようになり蒙軒学舎と改名しました。製糸工場や酒造業の経営が行われるなど、富士川舟運は最盛期を迎えますが、明治44年(1911年)に鰍沢大火が発生しています。昭和6年(1931年)に茂倉鉱山が開発されて金銀銅や石膏が採掘されました。
毛無山
毛無山は山梨県と静岡県にまたがる山で天子山地の最高峰で、日本二百名山に指定されています。毛無山の中腹には、江戸時代まで採掘された富士金山や中山金山の採掘跡が残ります。山頂からの展望は良く、富士山が屹立して朝霧高原が広大に展開されています。
- 山行日
- 2005/11/19
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 麓駐車場(06:50)~不動の滝(07:30)~山頂(09:45)、山頂(10:30)~不動の滝(11:55)~~麓駐車場(12:30)
- 地 図
- 山と高原地図「富士山」
- 同行者
- ひめ
- 標 高
- 毛無山(1946m)

麓金山金鉱石破砕機
麓登山口の近くは戦国時代から江戸初期にかけて麓金山と呼ばれる金の採掘場がありました。元禄15年(1702年)に廃鉱となりますが、近代に鉱脈が見つかり精錬所が造られました。

不動の滝
麓駐車場から地蔵峠分岐を過ぎたあたりから不動の滝を眺めることができます。不動の滝は落差100メートルと言われる二段滝で、紅葉の隙間を滝水が流れ落ちます。

毛無山山頂
9合目から緩やかな稜線を進めば広くて快適な山頂に到着します。2000メートル近い山頂は南東側が開けており、木々の合間から富士山を眺めることができます。

富士山と朝霧高原
毛無山の頂上と最高点は場所が異なります。最高点までは往復20分ほどの起伏の緩やかな稜線で、富士山の眺望がよく、富士山西麓には緑豊かな朝霧高原が広がります。

