南都留郡

南都留郡は山梨県東南部の富士山北麓に位置し、富士五湖地域と道志地区を含みます。富士山麓の高原地帯で、寒冷な気候を活かしてキャベツなどの高原野菜や酪農が盛んです。富士山の伏流水が湧き出ることで知られ、道志村は首都圏の水源林の役割があります。
概要
- 面積
- 420.98km2
- 人口
- 48,882人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 道志村、西桂町、忍野村、山中湖村、鳴沢村、富士河口湖町
- 地図
特集
歴史
噴火を繰り返した富士山は、溶岩流が大きな湖に流れ込み富士五湖を形成しました。富士山は信仰の対象として、修験道の道場から江戸庶民の富士講へと変化していきました。農業に適さない土地は農家の副業として絹織物を生み、甲斐絹として郡内地方の経済基盤となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代から人の営みが残されており、縄文草創期の神地遺跡から縄文の女神と呼ばれる人間の顔を表現した土器が出土しています。河口湖中に浮かぶ鵜の島には縄文時代晩期から弥生時代前期の鵜の島遺跡が形成しました。弥生時代の農耕の痕跡は少ないですが、滝沢遺跡で平安時代まで続く集落跡が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
巨大な古墳は現在のところ確認されていませんが、本栖湖の湖底や湖畔などから古墳時代の遺物が採集されています。
奈良時代、平安時代
東海道が整備されている駿河国と甲斐国を結ぶ甲斐路または御坂路があり、馬を用意する河口駅が置かれていました。延暦19年(800年)の富士山の大噴火で多くの集落が溶岩に飲み込まれたと言われています。溶岩流は山中湖と忍野湖を形成し、忍野湖は干上がり忍草村がつくられました。貞観6年(864年)の富士山の大噴火では溶岩流が剗ノ海に流れ込み、剗ノ海が西湖と精進湖に分離したとされます。

河口浅間神社
9世紀後半の噴火を契機に北麓に初めて建立された浅間神社と伝えられています。浅間神社を中心とした河口地区は、富士登拝が大衆化すると御師集落として発展を遂げました。
鎌倉時代、南北朝時代
元久2年(1205年)に畠山重忠が北条氏に討たれた二俣川の合戦で、秩父党の小山田氏の一族が都留郡に逃れて地頭となりました。豊富な湧水地では集落が形成し、湧水を生活用水や農業用水として活用しました。
室町時代、安土桃山時代
小山田氏は甲斐国守護の武田氏に従属して郡内地方の支配を盤石とし、北条氏や今川氏の侵攻を食い止めました。天正10年(1582年)に織田信長が甲州征伐を始めると、武田氏は急速に崩壊を始めました。武田勝頼は小山田信茂を頼り岩殿城へ撤退しましたが、小山田信茂は入城を拒否したため武田氏は滅亡に追い込まれました。織田信長は小山田信茂を主君を見捨てた不忠者として斬首刑に処し、小山田氏は滅亡しました。
江戸時代
谷村藩領でしたが、宝永元年(1704年)から幕府の直轄領となりました。五街道のひとつである甲州街道が整備されると人の往来が増え、富士山の登拝が富士講として確立して庶民の間で爆発的な人気となると、富士山登拝の重要な拠点となりました。農業の副業として始められた郡内織は、甲斐絹と呼ばれ江戸庶民の間で大変な人気となりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で山梨県となり、明治11年(1878年)に南都留郡に属しました。江戸時代から生産されていた甲斐絹は、明治19年(1886年)に色染所が開設され、明治29年(1896年)に染織学校が設立されて改良と普及がなされました。富士五湖には別荘地の開発が進み、富裕層の別荘が建てられました。
富士五湖
紀元前3000年よりも前には、宇津湖と剗ノ海と呼ばれる湖がありました。延暦19年(800年)の延暦大噴火で宇津湖は山中湖と古忍野湖に分かれました。貞観6年(864年)の大規模な噴火では、北西麓から噴きだした溶岩が剗ノ海に流れ込みました。剗ノ海は分断されて西湖と精進湖に分かれ、富士五湖が生まれて樹海を生んでいきました。

西湖
山地と青木ヶ原の樹海に囲まれた藍色の湖水が神秘的な湖です。富士山周辺の八つの湖沼を巡り修行する内八海巡りが多くの富士講信者により行われました。

精進湖
修験道の開祖・役行者が富士山に登る前に精進潔斎したことで名付けられたとされます。日本に帰化した英国人ハリー・スチュワート・ホイットウォーズ(星野芳春)が東洋のスイスと称しました。

本栖湖
水深およそ120メートルで本州一の透明度を誇る湖です。本栖湖の湖面に映る逆さ富士は絶景とされ、紙幣の裏面のデザインに採用されています。

山中湖
富士五湖のなかで、最も標高が高いところにある最大面積を誇る湖です。日本全体でも3位の広さを誇り、標高が高いため厳冬期には全面氷結することがあります。

河口湖
富士五湖の中で一番北にある湖で、最も長い湖岸線があります。水面の標高は一番低いといわれ、湖の中央には鵜の島という小さな無人島が浮かんでいます。
忍野八海
忍野八海は富士山の伏流水による八つの湧水地で、富士山信仰に関わる巡拝地として八海それぞれに八大竜王が祀られています。長谷川角行が修した富士八海修行になぞらえ、富士登拝を行う道者たちはこの水で穢れを祓いました。

忍野八海(出口池)
富士登山を目指す行者たちは、出口池の湧水を清浄な霊水と呼んだといいます。

忍野八海(お釜池)
忍野八海の中で最も小さな池です。ガマガエルが娘を引きずり込んだという伝説から大蟇池とも呼ばれています。

忍野八海(底抜池)
この池に物を落とすと底を通り抜けお釜池に浮上した伝承から、底抜池と名付けられたといわれています。

忍野八海(銚子池)
阿原川沿い脇の草地の中にある池です。若い花嫁が身を投げたという伝説が残されています。

忍野八海(湧池)
水深は4メートルの湧水量が豊富な池です。揺れ動く水面や深い水底の景観が美しい忍野八海を代表する池です。

忍野八海(濁池)
行者が一杯の水を求めたのを断った途端に池が濁ったというのが由来です。

忍野八海(鏡池)
部落内でもめごとが起きると問題の双方が鏡池の水を浴びて身を清め、平穏を祈りました。

忍野八海(菖蒲池)
大きな菖蒲が生息し、伝説ではこの菖蒲を身体に巻くと病気が治るといわれています。

