霊峰富士の信仰と芸術

日本を象徴とする富士山は、信仰の対象だけでなく芸術の根源となりました。奈良時代には富士山を題材とした歌が日本最古の歌集・万葉集に詠まれ、竹取物語や伊勢物語などでも取り上げられました。江戸時代に富士講が庶民に爆発的な人気となると、葛飾北斎の冨嶽三十六景や歌川広重の不二三十六景などの浮世絵に富士山が描かれました。
富士山
富士山は噴火を繰り返してきた活火山で、古くから恐ろしくも神秘的な山として遥拝の対象とされてきました。かつて海底でしたが、8万年前に地殻変動と火山活動により古富士火山を形成しました。1万年前の火山活動により新富士火山が誕生し、以降も火山活動を繰り返しました。宝永4年(1707年)の噴火から噴火の記録はありませんが、火山活動が休止している期間は地球の歴史からしては短いものです。
遥拝による富士信仰の始まり
8世紀頃まで噴火を繰り返した富士山は、怒れる火の山として恐れられてきました。激しく吹き上げる火焔は神の姿として崇められるようになり、いつしか富士山信仰へと高まりました。大同元年(806年)には繰り返す噴火を鎮めるため、富士山本宮浅間大社の前身とされる神社が創建されました。

山宮本宮冨士浅間神社
富士山本宮浅間大社の前身で、日本武尊が創建したと伝わります。本殿にあたる建物はなく富士山を望む遙拝所だけで、富士山を直接遙拝して祭儀が行われていたと推定されます。
富士五湖の形成
貞観6年(864年)の大規模な噴火により、北西麓から噴きだした溶岩が大きな湖である剗ノ海に流れ込みました。剗ノ海は分断されて西湖と精進湖に分かれ富士五湖を形成し、やがて溶岩流が流れたところに樹海を生んでいきました。

西湖
山地と青木ヶ原の樹海に囲まれた藍色の湖水が神秘的な湖です。富士山周辺の八つの湖沼を巡り修行する内八海巡りが多くの富士講信者により行われました。

精進湖
修験道の開祖・役行者が富士山に登る前に精進潔斎したことで名付けられたとされます。日本に帰化した英国人ハリー・スチュワート・ホイットウォーズ(星野芳春)が東洋のスイスと称しました。

本栖湖
水深およそ120メートルで本州一の透明度を誇る湖です。本栖湖の湖面に映る逆さ富士は絶景とされ、紙幣の裏面のデザインに採用されています。

山中湖
富士五湖のなかで、最も標高が高いところにある最大面積を誇る湖です。日本全体でも3位の広さを誇り、標高が高いため厳冬期には全面氷結することがあります。

河口湖
富士五湖の中で一番北にある湖で、最も長い湖岸線があります。水面の標高は一番低いといわれ、湖の中央には鵜の島という小さな無人島が浮かんでいます。
修験道と登拝への変化
修験道の開祖とされる役行者は、文武天皇3年(699年)に伊豆大島に流罪となり、しばしば伊豆大島から抜け出して富士山で修行した伝説が残されています。永保3年(1083年)の噴火を最後に火山活動が終息した富士山では、12世紀頃から役行者の流れをくむ修験者が修行するようになりました。なかでも末代上人は数百度登頂に成功し、山頂に大日寺を構えたとされます。修験者は富士山に登りながら祈りを捧げる登拝を行い、山域の巡礼を通じて神仏の霊力を獲得する独自の修行を行いました。明治5年(1872年)の太政官布告で修験道が禁止されるまで富士山は女人禁制となり続けました。

村山浅間神社
14世紀初頭に富士山の修験道が成立すると、村山はその中心地となりました。明治時代の廃仏毀釈まで存在していた興法寺は、大宮・村山口登拝道や山頂の大日堂を管理しました。

富士御室浅間神社
9世紀初めに吉田口登山道二合目に建立されたという富士山中最古の神社です。本殿は里宮に移設されましたが、修験や登拝の拠点である二合目の本宮と一体して機能しています。
長谷川角行と富士講
富士山麓には地獄の入口とされる人穴があり、人びとは決して近づくことは許されませんでした。16世紀末にあえて人穴で修行を積んだ長谷川角行は、不老長寿や無病息災を求める人びとの想いに応え、仏教とも神道とも異なる富士講と呼ばれる民衆の宗教組織を創設しました。

白糸ノ滝
富士山の雪解け水が、水を通さない古富士火山層の境の絶壁から湧き出しています。富士講の開祖とされる長谷川角行が修行を行い、富士講を中心とした人びとの巡礼・修行の場となりました。

人穴富士講遺跡
人穴浅間神社の境内にあり、長谷川角行が入定したとされる聖地です。長さ約80メートルの溶岩洞穴と富士講講員が建立した200基を超える登拝碑塔等が存在します。

船津胎内樹型
溶岩が樹木を取り込んで固化すると、樹幹の燃えつきて空洞化しました。内部の形態は人間の内臓のようで御胎内として信仰者の対象となり、胎内巡りと称して洞内を巡るようになりました。

吉田胎内樹型
承平7年(937年)の富士山噴火の溶岩で樹木が重なり複雑な樹型をつくり、その形から女性の胎内に例えられました。やがて胎内信仰に繋がり、修行者たちの祈りの対象となりました。
富士講の興隆
村上光清と食行身禄は長谷川角行の教義を受け継いで実践して発展させ、18世紀には富士山に登拝する富士講が大流行し、江戸市中には八百八講もの組織が設立されました。関東各地に見られる富士塚はその名残を示すもので、富士山に登頂できない人が祈りを込めるために築かれました。御師と呼ばれる人びとは、富士山頂を目指す人びとに宿を提供し、無事に富士登山を成し遂げられるよう祈りを捧げる役目を担いました。富士山は女人禁制ではありましたが、高山たつという女性が食行身禄の男女平等の思想から登頂を果たしています。

旧外川家住宅
明和5年(1768年)に建造された御師の住居兼宿坊の建物です。御師は登拝を行う富士講の信者に宿や食事を提供し、富士山信仰の布教活動と祈祷を行いました。

小佐野家住宅
文久元年(1861年)頃に再建された富士講最盛期における御師の住宅です。一般には公開されておらず、ふじさんミュージアムで模造復元住宅を見ることができます。
忍野八海の巡礼
忍野八海は富士山の伏流水による八つの湧水地で、富士山信仰に関わる巡拝地として八海それぞれに八大竜王が祀られています。長谷川角行が修した富士八海修行になぞらえ、富士登拝を行う道者たちはこの水で穢れを祓いました。

忍野八海(出口池)
富士登山を目指す行者たちは、出口池の湧水を清浄な霊水と呼んだといいます。

忍野八海(お釜池)
忍野八海の中で最も小さな池です。ガマガエルが娘を引きずり込んだという伝説から大蟇池とも呼ばれています。

忍野八海(底抜池)
この池に物を落とすと底を通り抜けお釜池に浮上した伝承から、底抜池と名付けられたといわれています。

忍野八海(銚子池)
阿原川沿い脇の草地の中にある池です。若い花嫁が身を投げたという伝説が残されています。

忍野八海(湧池)
水深は4メートルの湧水量が豊富な池です。揺れ動く水面や深い水底の景観が美しい忍野八海を代表する池です。

忍野八海(濁池)
行者が一杯の水を求めたのを断った途端に池が濁ったというのが由来です。

忍野八海(鏡池)
部落内でもめごとが起きると問題の双方が鏡池の水を浴びて身を清め、平穏を祈りました。

忍野八海(菖蒲池)
大きな菖蒲が生息し、伝説ではこの菖蒲を身体に巻くと病気が治るといわれています。
霊峰富士への登拝
かつて富士山の登山口は、吉田口、河口湖口、須走口、須山口、村山口、大宮口の6つでした。それぞれの口にある浅間神社は、富士山を登拝するうえで重要な起点となりました。明治時代になり御殿場口が開設され、旧陸軍演習場で寸断された須山口は衰退しました。現在の登山口は、吉田口、須走口、富士宮口、御殿場口の4つが一般的です。

北口本宮冨士浅間神社
浅間大神が祀られていた遙拝所を起源とし、文明12年(1480年)に富士山の鳥居が建立されました。16世紀半ばには社殿が整い、江戸時代に流行した富士講と強く結びついていきました。

河口浅間神社
9世紀後半の噴火を契機に北麓に初めて建立された浅間神社と伝えられています。浅間神社を中心とした河口地区は、富士登拝が大衆化すると御師集落として発展を遂げました。

須走浅間神社
延暦7年(788年)に甲斐国主の紀豊庭朝臣が社殿を建立したことに始まります。須走口登山道の起点となる神社で、村上講の村上光清師が境内社殿の大造営を行いました。

須山浅間神社
日本武尊が創建したとされる須山口登山道の起点となる神社で、須山口登山道を利用して山頂を目指した登拝者が、ここでみそぎを行い登山の安全などを祈願しました。

富士山本宮浅間大社
富士山を鎮めるために創建したとされ、富士山八合目以上を御神体として管理しています。境内にある富士山の水が湧く湧玉池では、道者が登山前の水垢離を行いました。
須走口から登頂
富士山東麓に位置する冨士浅間神社を起点とし、本八合目で吉田口登山道と合流して山頂東部へ達します。七合目には富士山への奉納物として現存最古の事例である1384年の紀年銘を持つ懸仏が出土しており、修験者が集中したとされています。
- 山行日
- 2005/7/30
- 天 候
- 曇り
- ルート
- 須走口(19:10)~六合目(20:35)~七合目(22:35)~本七合目(23:15)~八合目(23:45)~本八合目(00:15)~九合目(01:30)~頂上(02:05)
ご来光(04:35)~剣ヶ峰(06:10)~下山口(07:00)~須走口(09:00) - 地 図
- 山と高原地図「富士山」
- 同行者
- ひめ
- 標 高
- 富士山(3776m)

ご来光
山頂までは登り一辺倒で、7合目あたりから高山病で倒れる人が続出します。4時過ぎのご来光まで山頂で待機しましたが強風でとても寒いです。3時頃からは山小屋の人たちが商売を始めます。

富士山本宮浅間大社奥宮
御祭神は浅間大神と同一視される木花咲耶姫を主祭神としています。浅間大社奥宮の横には富士山頂郵便局があり、ポストに投函することで富士山頂郵便局の消印を押印してもらえます。

富士山頂噴火口
1時間かけて山頂部の火口壁を巡る御鉢巡りができます。富士講では山頂の神社を参拝したあと時計回りに御鉢巡りをしました。御鉢には最高峰の剣ヶ峰のほか金明水や銀明水などがあります。

須走口下山道
宝永4年(1707年)の噴火で登山道のみならず須走村が噴砂に覆われて壊滅しました。須走口の下山路は砂利が多く歩くたびに足が砂利に埋まるため、スパッツを装着すると良いです。
吉田口から登頂
北口本宮冨士浅間神社を起点とする登山口で、吉田口二合目に冨士御室浅間神社が鎮座しています。富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は信者の登山本道を吉田口に定めたため、富士講信者が増加して最も多くの人に利用されるようになりました。
- 山行日
- 2006/09/02~2006/09/03
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 吉田口(20:00)~七合目(22:00)~八合目(23:20)~山頂(04:00)、ご来光(05:10)、山頂(05:40)~吉田口(10:30)
- 地 図
- 山と高原地図「富士山」
- 同行者
- 私ほか会3名
- 標 高
- 富士山(3776m)

富士スバルライン五合目
昭和39年(1964年)に開通した富士スバルラインの終点で、標高2300メートルにあります。吉田口の5合目にあたり、富士登山の拠点のほか観光地として人気があります。

ご来光
午前5時前に太陽に照らされて赤く染まるモルゲンロートが始まり、およそ10分でご来光を拝むことができました。日本最高峰から眺めるご来光は荘厳そのもので、登拝者は釘付けにされます。

御鉢巡り
山頂は仏の世界に擬せられて内院と呼ばれ、噴火口には散銭が行われました。安永8年(1779年)に八合目以上は、幕府の裁定で富士山本宮浅間大社の支配権が認められました。
芸術の源泉・富士山
富士山は直径35~40キロで南端は駿河湾の海岸線に及び、標高3776メートルに達します。均整の取れたコニーデ型の外観をしている日本最高の独立峰は、日本最古の歌集・万葉集に詠われ、竹取物語などの古典文学でも取り上げられました。葛飾北斎の冨嶽三十六景などは、19世紀の西洋芸術に重大な影響を与え、富士山の形姿を東洋の日本の象徴として広く知らしめました。

三保松原
安部川から供給される大量の土砂が生み出された砂浜で、世界遺産の構成遺産として登録されています。舞い降りた天女が羽衣を奪われ、善人から返却されて再び天に帰る羽衣伝説が残ります。
富士講の衰退
明治時代になると廃仏毀釈により富士講は衰退していきました。交通網が整備されるとともに、富士登山は信仰から観光へと変化していきました。富士山は気象観測の拠点となり、明治28年(1895年)に野中至夫妻が初めて富士山頂での越冬観測を行いました。昭和40年(1965年)に富士山頂にレーダードームが完成し、平成11年(1999年)まで遥か太平洋の彼方まで気象観測を行い、平成16年(2004年)まで有人観測が行われました。
