歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

松本市

長野県松本市の松本城

松本市は本州及び長野県のほぼ中央に位置し、四方を山に囲まれた松本盆地を形成しています。内陸性気候で年間を通して寒暖差が大きく、湿度が低く降水量が比較的少ないのが特徴です。北アルプスの大自然と豊富な湧水に恵まれた松本市は岳都ととも呼ばれています。

概要

面積
978.47km2
人口
239,460人(2022年10月1日)
市の木
あかまつ
市の花
れんげつつじ
地図

特集

長野県松本市の上高地

近代登山へ変化した霊山

山を崇拝してきた人びとは仏教の伝来とともに神仏を融合させ、山で修行する修験道を確立しました。明治時代に欧米人が登山を行うようになり信仰から近代登山に変化していきました。

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歴史

平安時代には信濃国府が松本の地に置かれ中世には信濃守護の館があり江戸時代には松本藩の城下町として栄えました。明治期からは製糸業を中心とした近代産業が勃興しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

美ヶ原山麓の和田峠から八ケ岳や霧ケ峰にかけて黒曜石の産地が集中しており、縄文時代に大和合へ黒曜石を運び加工した跡が残されています。縄文時代中期後半には、松本平を中心に唐草文系土器の文化が広がりました。弥生時代に稲作が普及して田川流域などの低地は渡来人が開拓して集落を形成しました。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代前期に弘法山古墳と中山36号墳が造営されるのみでしたが、古墳時代中期には城山、浅間、里山辺、出川などの開発が進んだ地域に古墳が作られました。古墳時代後期には、入山辺には大きな横穴式石室をもつ南方古墳が作られたほか、中山に小さな古墳が盛んに作られました。

長野県松本市の弘法山古墳

弘法山古墳

中山丘陵の北側突端部にある3世紀後半の大規模古墳で、半三角縁四獣紋鏡などが出土しており地方を支配した有力者の陵墓と考えられています。

長野県松本市の針塚古墳

針塚古墳

扇央部の河岸段丘上に位置する5世紀後半の積石塚の円墳で、墳頂部の竪穴式石室内からは内行花文鏡や滑石製紡錘車などが出土しています。

奈良時代、平安時代

松本市中心部は信濃国筑摩郡の一部を形成し、平安時代には信濃国府が置かれたと推測されています。朝廷専用の牧場である勅旨牧が16牧整備され、勅旨牧を統括する牧監庁が束間郡に置かれました。

長野県松本市の埴原牧跡

埴原牧跡

6世紀頃に在地豪族が牛や馬を飼育した私牧でしたが、8世紀末に国府が筑摩郡に移庁されてから勅旨牧として接収され、信濃十六牧の一つとなりました。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉幕府が成立して大内惟義が松本平の捧庄地頭となりますが、元久2年(1205年)に北条時政と後妻・牧の方が源実朝を廃位しようとして平賀朝雅が暗殺される牧氏事件が起こると、平賀朝雅の兄弟である大内惟義は立場が微妙な状況となり、地頭職は守護北条義時が兼ねました。鎌倉幕府が滅亡すると、建武元年(1334年)に小笠原貞宗が信濃守護に任命されました。

長野県松本市の小笠原氏城跡(井川城跡)

小笠原氏城跡(井川城跡)

建武の新政で足利尊氏に従い活躍した小笠原貞宗が信濃守護に任じられて、松尾(飯田)から府中(松本)に進出して井川城を築城して本拠地としました。

長野県松本市の深志神社

深志神社

小笠原貞宗が深志城の鎮護神として諏訪大社から武神・諏訪明神を分霊して宮村大明神と称したことに始まり、松本藩主小笠原秀政が松本城と松本城下町の守護神としました。

室町時代、安土桃山時代

小笠原政康が死去すると、その跡目を巡り小笠原氏同族内で争いが起きました。守護職としての小笠原氏の権威は失墜して、信濃国は各地の豪族が台頭する群雄割拠となりました。天文19年(1550年)に武田晴信が侵攻して小笠原長時を追放すると、北信濃への侵攻の拠点として馬場信房を深志城主としました。天正10年(1582年)の武田氏滅亡とそれに続く本能寺の変により、武田氏の旧支配地は上杉氏、北条氏、徳川氏による争奪戦が繰り広げられました。その最中に小笠原長時の子・小笠原貞慶が徳川家康の力を得て旧領を回復し、深志城を松本城と改めて新たな拠点しました。

徳川家康の関東移封

領内の平定と城郭と城下町の建設に手をつけた小笠原貞慶は、徳川家康の関東移封に伴い古河へ移ることになりました。天正18年(1590年)から豊臣秀吉の命を受けた石川数正が松本に入りますが、文禄元年(1592年)に石川数正が文禄の役で死去し、石川康長が家督を継いで松本城天守の建築を進めました。

長野県松本市の若宮八幡宮

若宮八幡宮

深志城を築城した島立右近貞永を祀る神社として、子の島立貞知が建てた神社です。大正3年(1914年)に社殿が松本城の埋橋の近くから現在の位置に遷宮されました。

長野県松本市の小笠原氏城跡(林城跡)

小笠原氏城跡(林城跡)

小笠原清宗が戦乱に備えて15世紀後半に築城したと伝わる壮大な山城でしたが、天文19年(1550年)に武田晴信に攻略されました。

長野県松本市の松本城

松本城

永正元年(1504年)に島立氏が築城した深志城を前身とする平城で、江戸時代に建造された天守閣が残る現存する現存12天守の一つです。

江戸時代

慶長18年(1613年)に石川康長が大久保長安事件に連座して改易になり小笠原秀政が松本へ入りましたが、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で小笠原秀政・忠脩親子は戦死しました。元和3年(1617年)に戸田康長が松本に入り、寛永10年(1633年)から松平直政の統治を経て、享保11年(1726年)に再び戸田家が松本に入り明治維新を迎えました。

長野県松本市の松本神社

松本神社

戸田康長と正室松姫の間に生まれて早世した松平永兼を祀り暘谷大明神と称したことに始まり、戸田家の遠祖・一色兵部少輔と戸田宗光を合祀して戸田家の氏神となりました。

長野県松本市の中田氏庭園

中田氏庭園

出川組の名主や大名主を務める傍ら酒造業を営んでいた中田家の邸宅にある庭園で、邸宅は藩主の小休所や明治天皇の北国巡幸で休憩されたりしています。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県により松本県が置かれたあとに隣県と合併して筑摩県となり、明治9年(1876年)に筑摩県が廃止されて長野県となりました。松本地域では製糸業が発展し、明治43年(1910年)には松本の全工業生産価格の7割を生糸が占めました。明治44年(1911年)の薄川決壊や翌年の大火で大きな被害を受けましたが、太平洋戦争では大きな被害を受けず現在に続きます。

長野県松本市の二の丸御殿跡

二の丸御殿跡

明治4年(1871年)の廃藩置県で筑摩県となり二ノ丸御殿に県庁が置かれましたが、明治9年(1876年)に出火で全焼しました。

長野県松本市の旧開智学校

旧開智学校

明治6年(1873年)に廃寺を仮校舎として開校し、その三年後に建てられた校舎は日本で最も古い和洋折衷様式の建物の一つと言われています。

長野県松本市の四柱神社

四柱神社

明治7年(1874年)に設立された神道中教院を前身とし、明治12年(1879年)に天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神の四柱の神を祀る神社として創建しました。

長野県松本市の旧野麦街道

旧野麦街道

古くから飛騨と松本を結ぶ重要な道筋で、明治~大正時代の初めまであゝ野麦峠で有名となる飛騨工女の往還路として賑わいました。