歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

富士宮市

静岡県富士宮市の毛無山から眺める富士山

富士宮市は静岡県の中央部に位置します。富士山の雪解け水を源とする豊富な湧水と緑あふれる朝霧高原があり、日本一高低差がある市域が日本三大急流の富士川を生んでいます。特色のある多彩な食材があり、富士宮やきそばをはじめとするグルメが人気を集めています。

概要

面積
389.08km2
人口
125,878人(2023年1月1日)
市の木
カエデ
市の花
フジザクラ
市の鳥
ヒバリ
市の魚
ニジマス
市のキャラクター
フーちゃん、さくやちゃん
地図

特集

静岡県富士宮市の田貫湖からの富士山

霊峰富士の信仰と芸術

日本を象徴とする富士山は、信仰の対象だけでなく芸術の根源となりました。万葉集や竹取物語などで取り上げられ、富士講が爆発的な人気となると、葛飾北斎や歌川広重が浮世絵に描きました。

詳しくみる

歴史

古くから噴火を繰り返した富士山は、山そのものを御神体とする信仰の対象となりました。平安初期に富士山本浅間大社が創建し、富士山の噴火が終息すると修験道の道場となりました。江戸時代に富士講が爆発的な人気となると、富士山本浅間大社の門前町として発展しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

富士宮市の人の営みは、後期旧石器時代から始まります。下高原遺跡・小塚A遺跡・小塚C遺跡・沼久保坂上遺跡の4遺跡から、ナイフ形石器や尖頭器などが出土しました。縄文時代の遺跡は158遺跡が確認され、大鹿窪遺跡など縄文時代中期を最盛期に減少していきました。弥生時代の遺跡は50ほどあり、縄文時代から続く滝戸遺跡や城山遺跡には、大きな集落に方形周溝墓群が形成しています。

静岡県富士宮市の大鹿窪遺跡

大鹿窪遺跡

芝川の左岸の緩やかな斜面上にある縄文時代草創期を中心とした遺跡です。定住集落跡としては日本最古級であるとされ、富士山が見える場所に溶岩を積み上げて祭祀が行われていたとされます。

静岡県富士宮市の千居遺跡

千居遺跡

潤井川右岸の丘陵地にある縄文時代中期後半の竪穴住居と配石遺構を主体とする遺跡です。集落は富士山の火山灰で覆われて放棄され、そのあとに集落よりやや西側に配石遺構が築かれています。

古墳時代、飛鳥時代

人の営みが増えて弥生時代後期より多い68遺跡が確認されています。雀町遺跡や城山遺跡など、人の営みが平地に進出するようになりました。丸ヶ谷戸遺跡では高床式倉庫や竪穴住居跡とともに方後方形周溝墓が確認され、東海地方の強い影響が示唆されています。古墳時代中期から遺跡数が減少し、古墳時代後期は富士根地域や安居山低地などに古墳が分布しますが、そのほとんどが破壊などで詳細が分からないものが多いです。

奈良時代、平安時代

天応元年(781年)をはじめとして、複数回富士山が噴火しています。富士山の噴火を鎮めるため富士山本宮浅間大社が創建し、富士山本宮浅間大社の大宮司を務めて日本三大宮司家に数えられる富士氏が支配するようになりました。

山梨県富士吉田市の山宮本宮冨士浅間神社

山宮本宮冨士浅間神社

富士山本宮浅間大社の前身で、日本武尊が創建したと伝わります。本殿にあたる建物はなく富士山を望む遙拝所だけで、富士山を直接遙拝して祭儀が行われていたと推定されます。

静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社

富士山を鎮めるために創建したとされ、富士山八合目以上を御神体として管理しています。境内にある富士山の水が湧く湧玉池では、道者が登山前の水垢離を行いました。

鎌倉時代、南北朝時代

建久4年(1193年)に初代将軍・源頼朝が富士山の麓で巻狩を催しました。このとき曽我兄弟が父の仇を討つため工藤祐経を殺害し、兄の十郎祐成は仁田四郎忠常に討ち取られ、弟の五郎時致は工藤祐経の子・工藤祐時に討ち取られる事件が起きました。建仁3年(1203年)には2代将軍・源頼家も巻狩を行い、曽我兄弟の仇討ちで曽我十郎祐成を討ち取った仁田忠常が人穴を探検しています。

室町時代、安土桃山時代

今川氏は河東一乱と呼ばれる武田氏や後北条氏との争いを経て、富士川以東の河東地域の支配を安定化させていきました。天文23年(1554年)に3者は駿甲相三国同盟を結び、河東は今川領として定着しましたが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られて情勢が変化していきました。

武田氏と徳川氏の争奪戦

桶狭間の戦いで徳川家康が今川氏から独立し、武田信玄が駿河国侵攻を企てるようになりました。甲府と駿府を結ぶ駿州往還と中道往還にある大宮城は武田信玄に攻撃され、城主の大宮浅間神社の大宮司・富士信忠と信通父子は抗戦するも開城しました。天正3年(1575年)に武田勝頼が長篠の戦いで大敗すると武田氏は衰退して徳川氏の支配下となりますが、徳川家康は関東への配置換えとなりました。

江戸時代

宝永4年(1707年)と安政元年(1854年)の大地震、寛文13年(1673年)や宝永2年(1705年)の豪雨で大きな被害を受けました。天明2年(1782年)と文化元年(1804年)に芝川流域が大沢崩れを源とする土石流の被害が生じ、天保5年(1834年)には大規模な雪代災害が発生しました。

静岡県富士宮市の白糸ノ滝

白糸ノ滝

富士山の雪解け水が、水を通さない古富士火山層の境の絶壁から湧き出しています。富士講の開祖とされる長谷川角行が修行を行い、富士講を中心とした人びとの巡礼・修行の場となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治39年(1906年)に富士登山の大宮口の新道が開通しました。明治43年(1910年)に富士山の豊富な湧水を動力源とする水力発電所が建設され、製紙や紡績業の工場が建設されました。昭和17年(1942年)に富士宮市が誕生し、昭和20年(1945年)にアジア太平洋戦争が終結して朝霧高原が酪農地帯として開拓されました。