闇に暗躍した忍びの郷

日本特有の文化で世界的に多くの人から愛される忍者は、京都や奈良に近く周囲を山に囲まれた伊賀の地で生まれたと言われています。映画やアニメなどで戦闘集団としてイメージが定着していますが、闇に紛れて諜報活動を行う忍者の真の姿は謎に包まれています。
伊賀忍者の始まり
忍者は飛鳥時代に聖徳太子が志能備として用いたのが最初と言われ、天武天皇が多胡弥と呼ばれる忍びを用いました。伊賀は奈良や京都の都に近く山に囲まれた辺境地で隠れ家として申し分なく、土地が痩せ細り米の収穫が少ないため傭兵として出稼ぎする人が多くいました。忍者の表記は江戸時代に現れて忍びの者と呼ばれましたが、昭和時代に忍者として定着しました。

伊賀流忍者博物館
伊賀忍者の存在を今に伝える博物館で、忍者が住んでいた忍者屋敷が再現され、忍者に関する史料や忍術の実演などが展示されています。
忍者の任務
忍者は戦闘集団ではなく、情報収集や諜報活動を主体としていました。黒装束は江戸時代に生まれたイメージで、実際は目立たない服装で行商人や芸人、修験者などに変装して各地の情報を集めました。集めた情報は依頼主に届けなければならないため、積極的な戦闘のためではなく、生きて逃げ延びる忍術が発達しました。
忍者の心構え
伊賀忍者は午前4時から農作業を行い、午後から武術や忍術訓練を行いました。私利私欲に忍術を用いることを堅く禁じる厳しい掟があり、厳しい掟の中で死と隣り合わせの生活を行いました。どのような大きなことを成したとしても名前を残すことがない忍者は、音もなく、嗅ぎなく、智名もなく、勇名もなし。その功、天地造化の如しと称されています。

伊賀上野城
上野城がある場所には戦国時代に平楽寺が置かれており、伊賀の人びとがここに集まり会議や武術などの訓練をしていました。
忍術の形成と伝承
忍術は敵を倒すためではなく敵地から生還するための技術であり、医学や薬学などの当時の最先端の科学的な知識も備えていました。識字率が低い時代において京を追われた公家たちから読み書きを習い、神仏の加護を求めて修験者から九字護身法を習得しました。体術を鍛錬し、兵糧丸と呼ばれる生薬を用いた携帯食を生み出し、身近な道具を武器に転用して任務を果たしました。
農具を活用した忍具
農業を生業としている忍者は、農具の鎌に鎖を取り付けた鎖鎌を武器にするなど工夫していました。鉄は高価なため特殊な細工を施した針を持ち歩き、武器以外にも裁縫や針治療、方位磁針として使いました。忍者のシンボルである手裏剣は持ち運ぶには重いため、ほぼ使用されることはなく非常手段として使用したようです。

薬の調合
当時最新の科学技術を有していた忍者は、生き延びるための道具として薬の調合のほか火薬の製造なども行いました。

水蜘蛛
両足に履いて水の上を歩いたわけではなく、1つの板を浮輪のようにして水の中を進むために使用していたようです。
戦国時代の忍者の活躍
伊賀忍者と並び評される甲賀忍者は、高旗山を挟んで隣接する滋賀県甲賀郡を拠点としていました。時代劇などで両者は敵対して描かれることが多いですが、戦国時代の掟書きには甲賀忍者と寄合を持つなどの記述が残されているため、良好な関係を築いていたとされています。一方で仕事の請負い方は異なり、伊賀衆は主を定めず依頼を受けましたが、甲賀衆は主のもとで活動しました。
天正伊賀の乱
伊賀国を領国化しようとした織田信勝は、天正7年(1579年)に伊賀に攻め込みました。諜報活動を得意とする伊賀衆は最先端の火薬の技術と奇襲でこれを撃退しましたが、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱では織田方の大軍が伊賀衆を圧倒し、伊賀の忍びの郷は焼き払われて伊賀忍者は各地に落ち延びました。この戦いでは甲賀衆が織田信長に仕えていたため、のちに伊賀衆と甲賀衆はライバルとしてのイメージを生みました。

福地城跡
芭蕉公園として整備されている北伊賀の最大規模の城郭です。城主の福地氏は天正伊賀の乱で織田方に通じて伊賀を裏切りました。
服部半蔵と江戸時代
天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が討たれると、堺を訪れていた徳川家康は服部半蔵の勧めで、主要街道である東海道を避けて伊賀越えで三河国に戻りました。この時の伊賀衆の働きにより、江戸幕府を開いた徳川家康は服部半蔵のもとで伊賀組同心として伊賀衆を召し抱えました。
忍者の衰退
太平の世になると忍者が活躍する舞台は減少し、伊賀忍者は下級武士と同等で召し抱えられて門番や諜報活動などを行う者と、農業に専念して生活する者に分かれました。やがて明治時代を迎えるとどちらも平民となり、忍者はその歴史に幕を閉じました。