伊賀市

伊賀市は紀伊半島のほぼ中央の三重県北西部に位置し、大阪湾に注ぐ淀川の上流、木津川の最上流部にあたります。北東部を鈴鹿山系、南西部は大和高原、南東部を布引山系に囲まれた盆地を形成しており、夏の蒸し暑さと冬の底冷えなど寒暖の差が激しい内陸型気候を形成しています。
概要
- 面積
- 558.23km2
- 人口
- 87,466人(2021年10月1日)
- 市の木
- アカマツ
- 市の花
- ササユリ
- 市の鳥
- キジ
- 地図
特集
歴史
四周を山地で囲まれて小さな盆地や谷間の地形からなる伊賀盆地は、伊賀惣国と呼ばれる伊賀忍者をはじめとする独自の文化を築きました。江戸時代に伊勢神宮への参宮者の宿場町として栄え、伊賀地域の商工業の拠点として伊賀組紐や伊賀傘などの手工業生産が発達しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
およそ400万年前に古琵琶湖があり肥沃な土壌を形成しました。古くから人びとが生活した痕跡が残り、旧石器時代のナイフ形石器のほか花代遺跡などから縄文土器が出土しています。弥生時代後半になると水田があちこちに作らるようになり、比土と柏尾では銅鐸も見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代の終わりころから古墳が造営されるようになり、伊賀で最古の東山古墳は楕円形をしていました。仏教が伝来すると信仰の対象が仏教へ移り、古墳が造営されなくなりました。天武天皇9年(680年)に伊勢国から分離されて伊賀国が誕生しました。

城之越遺跡
4世紀後半に古代の祭祀が行われた遺跡で、大溝の井泉から湧き出る水に古代の人たちが祈りを込めたと考えられています。

車塚
5世紀初め頃の前方後円墳で、後円部は二段築成されています。円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪・盾形埴輪等の出土しました。

寺音寺古墳
5世紀中葉ごろの前方後円墳で、幅20メートルの周濠が巡らされて円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪などが出土しています。

御墓山古墳
5世紀後半初頭の三重県で最大規模を誇る前方後円墳で、伊賀北部の有力な豪族の墓と考えられますが被葬者や内部主体の構造は不明です。

猪田神社古墳附古井
矢田川左岸の丘陵上に築かれた3基からなる古墳群で、本殿東側の社殿地に大型の円墳があり、その東側には天真名井と呼ばれる古井があります。

鳳凰寺跡
壬申の乱で大海人皇子に敗れた大友皇子の冥福を弔うため、大友皇子の母・伊賀采女宅子が創建したと伝えられる古代寺院跡です。
奈良時代、平安時代
上野盆地北部は柘植川が西流して木津川に合流するため、大和街道・伊賀街道・初瀬街道など道路が整備されて交通の要衝として栄えました。東大寺大仏殿の建立やその補修では伊賀の杣で切り出された木材が運ばれました。平安時代半ばになると東大寺や摂関家など権門寺社の荘園が入り、大山田地区は伊賀平氏の荘園となりました。

伊賀国庁跡
8世紀末の官衙遺跡で、都から地方に派遣された国司が国内を統治する政治的な拠点で、国内における政治・経済・文化の中心として機能しました。

伊賀国分寺跡
聖武天皇の勅願で建てられた国分寺で、1メートル以上の土塁に囲まれた敷地に金堂、講堂、中門、塔の土壇が一列に並びます。

長楽山廃寺跡
金堂や講堂の土壇が残されている廃寺跡で、国分寺跡の東方200メートルにあることから伊賀国分尼寺跡と推定されています。

霊山山頂遺跡
天台宗の開祖である最澄が創建とされる寺院跡で、インドの霊鷹山から霊山と名付けられ、4基の宝篋印塔や3基の経塚などが残されています。
鎌倉時代、南北朝時代
力をつけた土豪がせめぎ合い、伊賀市内には500以上の城館跡が残ります。土豪たちは東大寺など荘園領主に反抗する悪党となり、悪党の合議で政治が決められる伊賀惣国一揆を形成していきました。

廃補陀落寺町石
鎌倉時代に廃補陀落寺が創建して、道しるべとして門前から一町ごとに石が置かれました。石には梵字や寺からの距離などが記されています。
室町時代、安土桃山時代
仁木氏が伊賀守護を務めましたが、支配が緩く土豪による自治が進みました。天正7年(1579年)の第一次天正伊賀の乱で伊賀衆が織田信勝の侵攻を撃退しましたが、天正9年(1581年)に織田信長が5万の大軍で伊賀を攻め、伊賀は焼き払われました。

真盛廟
西蓮寺に置かれた真盛上人の廟堂で、高い石積みの土壇の上に廟堂が建てられ、堂内中央に石造五輪塔が置かれています。

西蓮寺の供養塔
西蓮寺の墓所に所在する3基の石造五輪塔で、中央は明応4年(1495年)の真盛上人のもので、右側は後土御門天皇、左側は尊伝法親王の供養塔です。

福地城跡
芭蕉公園として整備されている北伊賀の最大規模の城郭です。城主の福地氏は天正伊賀の乱で織田方に通じて伊賀を裏切りました。
江戸時代
慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、大阪城の豊臣秀頼に対する軍事的な拠点として、慶長13年(1608年)に藤堂高虎が入国しました。豊臣家が滅亡して藩主が津城に住んだため、城代家老が伊賀国の政治を行いました。文化12年(1815年)に角倉家により笠置と上野の通船が開始され、お伊勢参りの流行に伴い伊勢神宮への宿場町として栄えました。

上野城跡
天正13年(1585年)に筒井定次が築城をはじめ、築城の名手である藤堂高虎が日本一の高さを誇る高石垣が整備するなど大改修しました。

藤堂高久公墓所
藤堂家の墓所は東京寛永寺にありますが、津藩3代藩主藤堂高久は遺言により上野盆地西部の長田山に埋葬されました。

鍵屋の辻
寛永11年(1634年)に渡辺数馬が義兄荒木又右衛門の助太刀を得て、弟を殺した河合又五郎を仇討ちした日本三大仇討のひとつ伊賀越仇討の舞台です。

蓑虫庵
元禄元年(1688年)に服部土芳が結んだ草庵で、無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹庵とともに芭蕉翁五庵のひとつとされ、唯一現存しています。

旧麗澤舎
寛政5年(1793年)頃に地元の有力者である冨山采一らが私財を投じて経営された道場で庶民の教育の場となりました。

旧崇広堂
文政4年(1821年)に津藩10代藩主・藤堂高兌の時代に領地に住む藩士の子弟を教育するため、藩校有造館の支校として建てられました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県により津県から安濃津県となりますが、翌年には三重県に改称されました。明治25年(1889年)に三重県で初めての駅となる柘植駅が開業して人や物の交流が盛んになりました。昭和16年(1941年)に上野市が成立して、昭和20年(1945年)に伊賀海軍航空基地が置かれると空襲被害を受けました。平成16年(2004年)に伊賀市が誕生しました。