歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

金沢市

石川県金沢市の兼六園

金沢市は本州中央部の日本海側で、石川県のほぼ真ん中に位置する県都です。南部を山地が占め北部は金沢平野を経て日本海に臨みます。戦国時代に加賀一向一揆の拠点として金沢御堂(尾山御坊)が築造されて町が作られたと言われ、前田利家が入城して加賀百万石の城下町として繁栄しました。

概要

面積
468.64km2
人口
460,691人(2022年2月1日)
市の木
ウメ
市の花
ハナショウブ、サルビア、ベゴニア、インパチェンス、ゼラニウム
地図

特集

石川県金沢市の金沢城跡

加賀百万石が生んだ金沢文化

豊臣政権で存在感を示していた前田家は江戸幕府から監視が強化されました。前田家は恭順の意を示すため資産を文化面に投資して独自の金沢文化を開花させました。

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歴史

加賀国は一向一揆により百姓の持ちたる国となり、金沢に尾山御坊が建てられて寺内町として発展しました。織田信長が支配すると前田家が入り、加賀百万石の城下町として発展しました。加賀藩は江戸の武家文化と京都の公家文化を融合させ、独自の文化を開花させました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

沖積平野の微高地に縄文遺跡が分布しており、縄文時代中期の古府遺跡や東市瀬遺跡、後期から晩期のチカモリ遺跡、晩期の中屋サワ遺跡が残されています。やがて弥生時代に環濠集落などが形成していきました。

石川県金沢市のチカモリ遺跡

チカモリ遺跡

縄文時代の後期中頃から晩期の終わり頃まで続いた大集落跡で、集落内を蛇行しながら流れる大溝と円形巨大木柱列遺溝が発見されました。

古墳時代、飛鳥時代

有力者たちが古墳をつくるようになり、平野部におまる塚古墳やびわ塚古墳など円墳が造営されました。古墳時代後期になると、小坂古墳群や塚崎横穴墓など小規模な古墳や横穴墓が群集してつくられました。

奈良時代、平安時代

飛鳥時代に律令制が整備され、都を中心とした統治が行われるようになりました。弘仁14年(823年)に越前国から分れる形で加賀国が誕生し、平安時代初期に東大寺が経営する大規模荘園が生まれました。仏教が興隆して僧侶が山中で修行するための寺院跡が三小牛ハバ遺跡として残ります。

石川県金沢市の東大寺領横江荘遺跡

東大寺領横江荘遺跡

奈良時代から平安時代前期にかけての荘園の管理事務所である荘家や工房、舟が行き来できる運河や船着場などの遺構が見つかりました。

鎌倉時代、南北朝時代

源頼朝による武家政権が誕生すると、堅田B遺跡に地元の有力な武士が居館を構えました。新しい仏教宗派が生まれると武士や農民に広まり、金沢周辺では本願寺を中心とした浄土真宗(一向宗)の信仰で門徒たちが団結するようになりました。

室町時代、安土桃山時代

長享2年(1488年)の加賀一向一揆により加賀国守護の富樫政親が滅ぼされ、百姓の持ちたる国と呼ばれるようになりました。天文15年(1546年)に金沢御堂(尾山御坊)が建てられて寺内町が整備されると加賀国の中心的な町となりますが、天正8年(1580年)に織田信長の家臣・佐久間盛政が加賀へ侵攻して金沢御堂を攻め落とし、天正11年(1583年)に前田利家が金沢城に入城しました。越中国の佐々成政が羽柴秀吉に反旗を翻し、朝日山城や末森城が攻撃を受けました。

石川県金沢市の御廟谷

御廟谷

加賀国の守護職に就いていた富樫一族の墓と推定されており、加賀一向一揆で討死した額丹後守と額八郎四郎の遺骸が葬られたとも伝わります。

石川県金沢市の二俣本泉寺九山八海の庭

二俣本泉寺九山八海の庭

文明3年(1471年)に本願寺蓮如が造園した庭園で、蓮如意匠の原型をとどめる数少ない庭の一つとして県下最古の中世庭園といえます。

石川県金沢市の加越国境城跡群及び道(小原越)

加越国境城跡群及び道(小原越)

越中国と加賀国を結ぶ道で、前田利家と佐々成政による加越国境の緊張が高まると道を遮断して戦時封鎖をしていたと考えられています。

石川県金沢市の加越国境城跡群及び道(切山城跡)

加越国境城跡群及び道(切山城跡)

天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いで反旗を翻した越中国の佐々成政の攻撃に備えて築城又は改修された可能性が高い城です。

石川県金沢市の加越国境城跡群及び道(松根城跡)

加越国境城跡群及び道(松根城跡)

前田方が優勢になると佐々成政は松根城を築いて守りを固め、山城の堀で軍事的に道を遮断した戦時封鎖したとされています。

江戸時代

前田家が立藩した加賀藩の城下町として栄えました。前田家は幕府への恭順の意を示すため多額の収益を散財して文化面に投資し、輪島塗や金沢箔や加賀友禅、九谷焼など独自の金沢文化を確立していきました。幕末は公武合体を主張して幕府を支援しますが、鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れて朝敵となると、新政府軍に加わり明治時代を迎えました。

石川県金沢市の金沢城跡

金沢城跡

前田利家や前田利長が大改造した加賀藩主の居城で、寛永8年(1631年)の大火で金沢城が焼失してから二ノ丸を中心に政務が行われました。

石川県金沢市の兼六園

兼六園

様々な時代の造園方法が駆使された林泉廻遊式庭園で、水戸偕楽園、岡山後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられます。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で金沢県となりましたが、翌年に石川県に改称されました。明治11年(1878年)に津田米次郎が開発した絹力織機により羽二重などの生産で日本有数の北陸機業地帯を形成しました。大正11年(1992年)に犀川と浅野川の洪水で犀川大橋などの橋梁が流出しました。

石川県金沢市の尾山神社神門

尾山神社神門

明治6年(1873年)に尾山神社が創建し、その2年後に建てられた神門には4色のギヤマンがはめられ、灯台の役割を果たしていました。

石川県金沢市の旧石川県庁舎本館

旧石川県庁舎本館

大正13年(1924年)に建造された鉄筋コンクリート造の建物で矢橋賢吉が設計しました。現在は石川県政記念 しいのき迎賓館として保存されています。

石川県金沢市の末浄水場園地

末浄水場園地

近代的な造園意匠を取り入れた洋風整形式の園地であり、昭和7年(1932年)に完成した前庭は末浄水場の重要な基点を成していました。

石川県金沢市の鼓門

鼓門

平成17年(2005年)に北陸新幹線が金沢に延伸したときに建てらた金沢の新たなランドマークです。