歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

大内文化が花開いた西の京

山口県山口市の瑠璃光寺

百済国の王族である琳聖太子を祖とする大内氏は、周防国を与えられて大内氏を名乗るようになりました。大内氏は南北朝の争乱で西国一の大名となり、海上交易や鉱山開発などで得られた豊富な資金で京都を模した西の京と呼ばれる町並みと文化を育みました。

大内氏の誕生

大内氏は、百済国の聖明王の第三皇子である琳聖太子により始まるとされます。琳聖太子は聖徳太子より周防国大内県を与えられ、ここを本拠地として多々良氏を名乗りました。多々良氏は平安時代から鎌倉時代にかけて在庁官人として国衙の実務を司り、平安時代に多々良盛房が大内の地に移り住み、大内氏を名乗るようになりました。

山口県山口市の興隆寺

興隆寺

7世紀初めに大内氏の祖である琳聖太子が創建したと伝わる大内氏の氏寺で、仁平寺や乗福寺とともに大内文化発展の中心的な役割を果たしました。

山口県山口市の櫻木神社

櫻木神社

承平元年(931年)に大内茂村が建立したと伝えられる神社で、仁壁神社と今八幡神社とともに山口三社と言われ、江戸時代中期に現在地に移築されました。

山口県山口市の長野八幡宮

長野八幡宮

寛治3年(1089年)に平忠平が宇佐八幡宮から勧請したとされ、境内の泉水池は日照りでも枯れることがないと言われます。

山口県山口市の日吉神社

日吉神社

仁平元年(1151年)に日吉山に置かれていた仁平寺を外敵や災難から守るため、比叡山から神様を勧請して創建されました。

南北朝の戦乱と大内氏

鎌倉時代に元軍が侵攻した文禄の役が起こると、建治2年(1276年)に鎌倉幕府派長門探題を設置して元寇に対処させました。大内弘幸は長門探題・北条時直と行動を共にしたため、建武の新政で冷遇を受けて周防国守護は叔父の鷲頭長弘に与えられました。鷲頭長弘が北朝方となると大内弘幸と大内弘世父子は南朝方として敵対しました。

山口県山口市の光円寺

光円寺

良君城と呼ばれる大内屋敷跡と言われ、正安2年(1300年)に没した大内弘家の墓と伝えられる宝篋印塔が残されています。

山口県山口市の乗福寺

乗福寺

嘉元3年(1305年)に大内重弘が創建した寺院で、創建当初は興隆寺と並ぶ巨大寺院で、裏山に大内氏の館が置かれていました。

大内弘世と繁栄の礎

大内弘世は、貞治元年(1363年)に周防・長門守護を認められる条件で北朝方に降り、2代将軍足利義詮に仕えて鷲頭氏を抑えて周防国を統一しました。長門国に進出したのち、さらに足利直冬率いる石見の南朝勢力を駆逐した戦功により石見国の守護職に任ぜられました。正平15年/延文5年(1360年)に山口に館を建てて大陸との交易を盛んに行いながら、京都の文化を取り入れて京都を模した町づくりを行いました。

山口県山口市の大内氏遺跡(館跡)

大内氏遺跡(館跡)

大内弘世が政務を執るために居館を移した場所で庭園跡も見つかりました。弘治3年(1557年)に毛利隆元が龍福寺を再興しました。

山口県山口市の志多里八幡宮

志多里八幡宮

大内弘世の家臣で小野領主の平弘兼が、正平7年(1352年)に宇佐八幡宮から勧請して創建しました。

最盛期を迎えた大内義弘

大内弘世の嫡男・大内義弘は、今川了俊に協力して九州各地を転戦して南朝方討伐に尽力しました。弟の大内満弘との内紛を制して家督を継ぎ、足利義満の厳島詣に随行して以来、京都で生活しつつ明徳の乱で活躍して和泉・紀伊守護職を与えられました。大内氏を最盛期に導きましたが、足利義満の北山殿の造営に協力せずに関係が悪化すると、応永6年(1399年)の応永の乱で畠山満家に討たれました。大内家の家督は、大内盛見、大内持世、大内教弘が継いでいきました。

山口県山口市の小野地蔵院

小野地蔵院

応永4年(1397年)に大内義弘が建立した寺院で、恵心僧都による地蔵菩薩を本尊としています。

山口県山口市の瑠璃光寺

瑠璃光寺

大内義弘の弟である大内盛見は、兄の菩提を弔うため、香積寺に大内文化の最高傑作と言われる五重塔を建立しました。

山口県山口市の大内氏遺跡(築山跡)

大内氏遺跡(築山跡)

大内教弘の築いた別邸、築山館の跡とされています。寛正6年(1465年)に大内教弘が没すると、築山大明神として神格化されて祀られました。

応仁の乱と大内政弘

応仁の乱が勃発すると、大内政弘は山名宗全の西軍に主力として属しました。文明6年(1474年)に山名宗全の跡を継いだ山名政豊と細川勝元の跡を継いだ細川政元が和睦を結び応仁の乱が終息に向かうと、日本三大悪女と呼ばれる足利義政の妻・日野富子は、大内政弘に周防、長門、豊前、筑前、石見、安芸を安堵し、豊富な資金で官位を与えて国許に返しました。

山口県山口市の常栄寺庭園

常栄寺庭園

大内政弘が別荘として雪舟に築庭させたものと伝えられます。雪舟が中国大陸の風景から得た中国大陸の三山五嶽になぞらえた石組みがあります。

山口県山口市の常徳寺庭園

常徳寺庭園

雪舟が築庭した伝承が残る池泉鑑賞式庭園で、自然岩盤を巧みに利用して渓谷風の滝石組に仕上げ、中島に大ぶりの景石を集中的に据えています。

山口県山口市の善生寺庭園

善生寺庭園

雪舟が築庭したと伝わる池泉鑑賞式庭園で、大内義隆にフランシスコ・ザビエルを引き合わせた内藤興盛の菩提寺・西方寺を前身とします。。

管領代となる大内義興

明応3年(1494年)に大内政弘の跡を継いだ大内義興は、永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺される永正の錯乱を好機ととらえ、前将軍・足利義稙を奉じて上洛を決意します。大内義興は細川高国と組んで足利義稙を再び将軍の座に置き、細川高国を管領として自身は管領代となりました。しかし、国許では尼子経久の侵攻や安芸武田氏や毛利氏の離反を招きました。

山口県山口市の凌雲寺跡

大内氏遺跡(凌雲寺跡)

大内義興が了庵桂悟を開山として、永正4年(1507年)頃に創建したと考えられており、惣門跡の石垣が残されています。

大内義隆と大内氏の滅亡

大内義隆は、周防国、長門国、豊前国、筑前国、備後国、石見国、安芸国の7か国の守護を兼ねて一大勢力となりました。日明貿易で抜群の経済力を誇る山口は西の京と呼ばれるほど繁栄し、山口殿中文庫と呼ばれる図書室を保有しました。天文11年(1542年)に尼子氏の月山富田城を攻めた際、養子の大内晴持を失い、文知派の相良武任と武断派の陶隆房や内藤興盛らが対立するようになりました。天文19年(1550年)にフランシスコ・ザビエルが来訪し、翌年にキリスト教の布教を認めています。

大寧寺の変

天文20年(1551年)に大内家重臣で周防守護代の陶隆房は、大内義隆が拠点とする山口を強襲しました。大内義隆は長門国の大寧寺まで逃れましたが、陶隆房の軍に攻められて自害しました。このときに山口を訪れていた三条公頼や二条尹房ら公家も命を落としました。嫡流が途絶えた大内家は内乱が相次ぎ、わずか6年で滅亡することになります。

山口県山口市の高嶺城跡

大内氏遺跡(高嶺城跡)

弘治2年(1556年)に大内義長が毛利氏の来襲に備えて築城されました。城跡には石垣や井戸、郭の跡が残されています。

大内輝弘の乱

豊後国の大友宗麟は、大内輝弘に手勢を与えて大内氏再興のため高嶺城を包囲しました。大友攻めをしていた毛利軍が引き返すと、大内輝弘は撤退を開始しますが、船は見当たらずに東の海岸線に逃げ延びますが、茶臼山で自害しました。