山口市

山口市は山口県のほぼ中央部に位置する県庁所在地です。古くから中央と九州を結ぶ交通の要衝であり、室町時代に大内氏の本拠として形作られました。応仁の乱を逃れてきた文化人を招いたため京都の文化が広まり、日明貿易を行うなど西の京と呼ばれるほど栄華を極め、雪舟やフランシスコ・ザビエルも滞在しています。
概要
- 面積
- 1,023.23km2
- 人口
- 193,051人(2021年11月1日)
- 市の木
- イチョウ
- 市の花
- 菜の花
- 市の花木
- サクラ
- 地図
特集
歴史
室町時代に大内弘世が大内氏の本拠としたことで発展し、大内義興や大内義隆は西国一の大名として栄華を極めました。幕末には萩市から山口市に藩庁が移され、明治維新の中心的役割を果たしました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代の美濃ヶ浜遺跡、徳佐高校遺跡、花の木遺跡が発見され、弥生時代の遺構として宮ヶ久保遺跡で発見され、白石茶臼山石棺墓群や糸米古墳などの墓地が見つかりました。

長門峡
阿武川沿いの美しい渓谷で、日本画家で地質学者の高島北海により命名されました。

朝田墳墓群
弥生時代後半から古墳時代後半にわたる大墳墓群で、弥生時代の集団墓から古墳時代の個人墓への変化の過程を知る重要な遺跡です。
古墳時代、飛鳥時代
飛鳥時代に百済の皇子・琳聖太子は、聖徳太子から大内の地を安堵されて大内氏の始祖になったとされます。

大内氷上古墳
5世紀に造営された大内盆地の首長の墓と考えられる小型の前方後円墳で、山口市域に現存する数少ない前方後円墳です。

大浦古墳群
古墳時代後期の浦辺古墳、大浦古墳、梅ヶ崎古墳が確認され、そのうち6基を移築して公園として整備しています。

陶陶窯跡
6世紀ごろの窯跡で、良質の粘土を原料として古墳に多く副葬されている大陸系技術による素焼きの土器が焼かれました。
奈良時代、平安時代
平安時代の貨幣の鋳造所である周防鋳銭司跡では、皇朝十二銭のひとつ富寿神宝が見つかりました。

百谷窯跡
9世紀以降につくられた古代の須恵器窯跡で、鋳銭司の役所やこの地方一般に広く製品を供給したと考えられています。

周防鋳銭司跡
平安時代初期にかけて銭貨の鋳造を行う国の機関がありました。陶地域で須恵器の生産が行われるなど一大工業地帯が存在していました。
鎌倉時代、南北朝時代
俊乗房重源は東大寺再建の用材を搬出した人たちのために、文治2年(1186年)に佐波川関水、岸見の石風呂、野谷石風呂を造営しました。南北朝時代の延文5年/正平15年(1360年)に周防国を平定した大内弘世が本拠地を置いて市街地が形成しました。

佐波川関水
東大寺再建のために大木を求めた重源上人が、材木を搬出しようと佐波川を堰き止めて水路を整備したもので関水と呼ばれます。

野谷石風呂
文治2年(1186年に)頃に東大寺再建に必要となる材木調達に従事した人びとの保養のために、重源上人が創始した石風呂です。
室町時代、安土桃山時代
応仁の乱で京から逃れてきた文化人を受け入れたことで大内文化が生まれ、日明貿易などで得られた豊富な資金で京都と似た町並みを形成し、西の京として栄えました。天文21年(1552年)には宣教師がキリシタンを招いてクリスマスの祝いを催し、クリスマス発祥の地とされます。大内氏が滅亡すると毛利氏が支配しました。

大内氏遺跡(館跡)
大内弘世が政務を執るために居館を移した場所で庭園跡も見つかりました。弘治3年(1557年)に毛利隆元が龍福寺を再興しました。

瑠璃光寺
大内義弘の弟である大内盛見は、兄の菩提を弔うため、香積寺に大内文化の最高傑作と言われる五重塔を建立しました。
江戸時代
関ヶ原の戦いで毛利輝元が防長二国に減封され、政治的な中心が居城の萩に移されましたが、文久3年(1863年)に藩府を萩から山口に移しました。山口は討幕運動の拠点となり、明治維新の策源地と呼ばれています。

周防灘干拓遺跡(名田島新開作南蛮樋)
新田を開発するために安永3年(1774年)に完成した南蛮樋で、人力で板を上下に動かして水の動きを調節しました。

萩藩主毛利家墓所(香山墓所)
13代藩主・毛利敬親が居城を萩から山口に移したことで造営され、毛利敬親から14代毛利元徳夫妻、15代毛利元昭夫妻の墓が置かれました。

徳佐(サクラ)
徳佐八幡宮参道の桜並木は文政8年(1825年)に氏子有志により初めて植栽され、戦後に苗の育成や捕植により景観が戻りました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で山口県となり県庁が置かれました。昭和4年(1929年)に市制を施行して山口市が誕生しました。

大村益次郎墓
大村益次郎は、萩藩に仕えて優れた戦術で第二次長州征討や戊辰戦争で活躍しました。明治2年(1869年)に旧思想の志士に襲撃され大阪で死去しました。