歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

長州藩の尊王攘夷と倒幕運動

山口県萩市の萩城城下町

関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は、120万石から30万石まで減封されました。毛利氏は萩を中心に藩政を確立し、幕末には雄藩のひとつとなりました。黒船来航により過激な尊王攘夷を推し進め、松下村塾の塾生たちが積年の恨みをはらすべく倒幕運動を起こして明治維新の原動力となりました。

長州藩の成立

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、徳川家康から周防国と長門国の2か国に封じられました。大幅に領地を減らされた幕府に対する遺恨は深く、毎年の年賀の挨拶で家老が藩主に対して幕府討伐を問う風習がありました。

山口県萩市の萩城跡

萩城跡

毛利輝元は幕府と相談のうえ、慶長9年(1604年)から萩の指月山に築城を始めました。指月山を詰の丸として戦時を想定した造りです。

山口県萩市の萩城城下町

萩城城下町

毛利氏が整備した城下町の縄張りは現在も残されており、日本で唯一江戸時代の地図がそのまま使えるまちと言われます。

山口県萩市の旧萩藩御船倉

旧萩藩御船倉

慶長13年(1608年)の萩城が築城してまもなく建てられた船倉で、藩主の御座船を格納していました。

山口県萩市の萩藩主毛利家墓所

萩藩主毛利家墓所

萩藩毛利家は萩市と山口市の4カ所にあり、萩市には旧天樹院、大照院、東光寺に墓所があり、山口市には香山にあります。

長州藩の藩政

2代藩主・毛利綱広は山陽道と離れている萩の弱点を補うため、萩と三田尻を結ぶ萩往還を整備しました。また、毛利元就以来の先例をまとめた万治制法を制定し藩政を確立しました。3代藩主・毛利吉就は治水工事や城下町の整備を行いますが、藩財政の悪化を招きました。7代藩主・毛利重就は港を整備して廻船の寄港地として発展させ、塩田開発を進めて特産品の米や和紙と加えて防長三白として藩財政を好転させました。

村田清風の藩政改革

13代藩主・毛利敬親は、村田清風に藩政の実権を任せて大規模な藩政改革を行いました。海運の要衝である下関に金融倉庫と貿易を行う越荷方を設置し、貨幣経済に対応した財政政策を取りました。また、藩主導で密貿易で資金調達を行い、幕末の長州藩の積極的な活動を可能にしました。

山口県萩市の萩往還

萩往還

江戸への参勤交代で使用する御成道で、日本海側の萩から瀬戸内海側の三田尻港までの全長35キロをほぼ直線で結びます。

山口県萩市の奥阿武宰判勘場跡

奥阿武宰判勘場跡

萩藩は領内を20~30の宰判に区分けして統治しました。宰判には勘場と呼ばれる役所が設けられ、代官が置かれていました。

山口県萩市の旧萩藩校明倫館

旧萩藩校明倫館

享保4年(1719年)に5代藩主毛利吉元が毛利家家巨の子弟教育のために堀内に開いた藩校で、吉田松陰や楫取素彦らが教鞭をとりました。

黒船来航と尊王攘夷運動

嘉永6年(1853年)にペリーの黒船が来航すると、国内は攘夷か開国かで大混乱となり、幕府は大船建造禁止令を解禁して萩藩に軍艦を建造するよう命じました。毛利敬親は周布政之助を登用して藩の体制強化や洋式軍備の拡充を図りますが、幕府が朝廷の許可を得ずに日米和親条約、安政5年(1858年)に日米修好通商条約を締結すると、長州藩は過激な尊王攘夷運動を進めるようになりました。

山口県萩市の恵美須ヶ鼻造船所跡

恵美須ヶ鼻造船所跡

安政3年(1856)に設立した造船所で、同年に丙辰丸が進水し、万延元年(1860)には庚申丸が進水しました。

山口県萩市の大板山たたら製鉄遺跡

大板山たたら製鉄遺跡

島根県から北前船で運ばれた砂鉄で鉄を精製し、恵美須ヶ鼻造船所で建造された丙辰丸の釘や碇などの部品にも使用されました。

山口県萩市の萩反射炉

萩反射炉

佐賀藩の反射炉のスケッチを参考に建造された反射炉で、安政3年(1856年)に試験的に金属の溶解実験が行われました。

吉田松陰と松下村塾

天保13年(1842年)に吉田松陰の叔父である玉木文之進が松下村塾を開きました。安政4年(1857年)からは、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が引継ぎ、倒幕運動を推し進めた久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎のほか、藩論を倒幕にまとめて奇兵隊を組織した高杉晋作などを輩出しました。

山口県萩市の吉田松陰幽囚ノ旧宅

吉田松陰幽囚ノ旧宅

吉田松陰は安政元年(1854年)にアメリカ軍艦で海外渡航しようとして捕らえられ、のちに謹慎生活を送りました。

山口県萩市の松下村塾

松下村塾

身分の隔てなく塾生を受け入れた私塾で、吉田松陰は謹慎生活を送りながら松下村塾を主宰するようになりました。

下関戦争

大老・井伊直弼は攘夷運動の取り締まりを強化し、安政4年(1858年)に吉田松陰ら尊王攘夷派を処刑する安政の大獄を断行しましたが、行き過ぎた弾圧は反発を招き、安政7年(1860年)に井伊直弼が殺害される桜田門外の変が起きました。幕府は朝廷との関係を強めるため孝明天皇の妹・和宮を将軍・徳川家茂に嫁がせて公武合体を図り、文久3年(1863年)に孝明天皇の意を汲んで攘夷を各藩に通達しました。過激な尊王攘夷派の長州藩は本拠地を萩から山口に移して外国船に対して砲撃を加える下関事件を起こしたため、アメリカ、ロシア、フランス、イギリスが報復する下関戦争に発展しました。

禁門の変と第一次長州征討

文久3年(1863年)に長州藩は攘夷運動を推し進めるため京都に侵攻すると、会津藩と薩摩藩は反攘夷派の公家たちの同意を取り付けて御所を守り固めました。長州藩は京都から撤退しますが、翌年の元治元年(1864年)に京都に潜伏していた長州藩や土佐藩の尊王攘夷派志士が新撰組に討たれる池田屋事件が起こりました。長州藩は京都に出兵して会津藩や薩摩藩と交戦となり、敗れた長州藩は朝敵と見なされて第一次長州征討を招きました。長州藩は攘夷派の国司親相ら家老3名の切腹と藩主毛利敬親の謹慎などで事態は収拾しました。

高杉晋作と第二次長州征討

身分によらない軍隊として奇兵隊を結成した高杉晋作は、クーデターを起こして長州藩の藩論を倒幕にまとめ、天才軍略家の大村益次郎を招いて最先端の西洋の兵学を取り入れました。慶応2年(1866年)に坂本龍馬らの仲介で薩長同盟が締結されると、薩摩藩名義で武器を調達して軍備増強を図りました。同年に第二次長州征討が起こると、幕府軍15万人に対して長州藩数千人で打ち破ることに成功し、国内は討幕へと傾いて明治維新を迎えることになります。