歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

萩市

山口県萩市の萩城跡

萩市は山口県北部の日本海に面し、阿武川の下流が松本川と橋本川に分かれて形成した三角州に市街地が形成しています。東部の中国山地から北西部の日本海に向かう傾斜地で、沿岸部は対馬暖流の影響で比較的温暖です。明治維新の志士を輩出した城下町で、多くの観光客が訪れる観光都市です。

概要

面積
698.31km2
人口
40,443人(2025年2月1日)
市の木
ヒノキ・マツ
市の花
ツバキ・ハギ
市の果樹
ナツミカン
地図

特集

山口県萩市の萩城城下町

長州藩の尊王攘夷と倒幕運動

長州藩は黒船来航により過激な尊王攘夷を推し進め、松下村塾の塾生たちが倒幕運動を起こして明治維新の原動力となり、江戸開府から続く積年の恨みを晴らしました。

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歴史

江戸時代に毛利氏が広島から移り住み、萩城を中心に統治を行いました。毛利氏が整備した城下町の縄張りは現在も残されており、日本で唯一江戸時代の地図がそのまま使えるまちと言われます。幕末は吉田松陰をはじめ高杉晋作や伊藤博文など近代日本の礎を築いた多くの偉人を輩出し、明治維新胎動の地と呼ばれます。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の遺物は確認されておらず、縄文時代や弥生時代の遺物や遺跡は大井を中心に見島などで発見され、大井の宮の馬場遺跡からは弥生土器や石器が数多く発見されています。

山口県萩市の須佐湾

須佐湾

湾の中に七つの入り江が複雑な形で入り組み、周辺にはホルンフェルスをはじめ鶴島、のり石、観音岩、雄島、弁天島など数多くの名勝地があります。

古墳時代、飛鳥時代

6世紀初頭~中頃の円墳である円光寺古墳のほか光円寺穴観音古墳が造営されました。見島ではジーコンボ古墳群が造営されています。

山口県萩市の穴観音古墳

穴観音古墳

6~7世紀初頭の方墳で、横穴式石室には耳の病気が良くなると伝えられる観音石仏が祀られています。

山口県萩市の見島ジーコンボ古墳群

見島ジーコンボ古墳群

7~10世紀の古墳群で、石や小石を積み上げてつくられた積石塚と呼ばれる形の古墳が200基ほど集中しています。

奈良時代、平安時代

10世紀前後には長門国阿武郡は周防国とともに後白河院の知行する阿武御領と呼ばれていました。大井大寺や上野光安寺遺跡などの寺院跡が残ります。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉時代に長寿寺十三重塔が建てられました。元寇では元の軍船が沖に停泊して、錨に使用していた石が残されています。

室町時代、安土桃山時代

室町時代の終わりに大内義隆が善福寺に宛てた寄進状に萩浦の名称が用いられ、これが萩の地名の初見となります。

山口県萩市の萩焼古窯跡群

萩焼古窯跡群

文禄・慶長の役で連れて来た朝鮮人陶工に命じて開かれた御用窯で、窯品は松本焼や深川焼と呼ばれましたが、明治時代に萩焼に統一されました。

山口県萩市の須佐唐津古窯跡群

須佐唐津古窯跡群

萩焼古窯跡群と同じ頃に操業していた窯跡で、朝鮮陶工による技法を受け継いだ陶器のほか、最も早い国産の青磁器が焼かれました。

江戸時代

慶長9年(1604年)に毛利輝元が広島から萩に居城を移して城下町を建設しました。毛利氏の御膝元として明治維新の志士を輩出しましたが、文久3年(1863年)に藩府を萩から山口に移したことで、萩城はその役目を終えました。

山口県萩市の萩城跡

萩城跡

毛利輝元は幕府と相談のうえ、慶長9年(1604年)から萩の指月山に築城を始めました。指月山を詰の丸として戦時を想定した造りです。

山口県萩市の萩城城下町

萩城城下町

毛利氏が整備した城下町の縄張りは現在も残されており、日本で唯一江戸時代の地図がそのまま使えるまちと言われます。

明治時代、大正時代、昭和時代

萩藩と徳山藩が統一されて山口藩となり、明治4年(1871年)の版籍奉還で山口、豊浦、岩国、清末の4藩が統合されて山口県となりました。明治6年(1873年)の徴兵令で身分や職を失った士族は、明治9年(1876年)の秩禄処分を切欠として、明治新政府で参議・兵部大輔を務めた前原一誠らによる萩の乱が起きました。昭和7年(1932年)に萩市が誕生し、平成17年(2005年)に1市2町4村が合併して新たな萩市となりました。

山口県萩市の伊藤博文旧宅

伊藤博文旧宅

明治18年(1886年)に初代総理大臣となり、明治38年(1905年)に初代韓国総督となりますが、ハルピン駅で韓国人に暗殺されました。

山口県萩市の木戸孝允旧宅

木戸孝允旧宅

桂小五郎の名でも知られる木戸孝允の旧宅です。木戸孝允は薩長同盟を結んで明治維新に貢献して維新三傑のひとりと称されます。