歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

阿波藍に支えられた徳島藩

徳島県徳島市の徳島城

豊臣秀吉から阿波一国を与えられた蜂須賀家政は、嫡男・蜂須賀至鎮を東軍に属したことで所領を安堵され、さらに大坂の陣での戦功により淡路国が加増されました。阿波徳島藩は吉野川流域を中心に藍作が盛んに行われ、高品質な藍は全国市場で高い評価を受け、藩の財政を潤しました。

徳島城の築城

至徳2年(1385年)に阿波守護・細川頼之が築城した渭山城は、天正10年(1582年)に長宗我部元親が阿波国を平定して吉田泰俊が城主となりましたが、豊臣秀吉の四国征伐で戦わずして逃亡しました。天正13年(1585年)に羽柴秀吉が四国を平定すると、阿波国は蜂須賀正勝(小六)に代わり嫡男・蜂須賀家政に与えられ、その翌年に羽柴秀吉の命により渭山城を破却して徳島城を築城しました。

阿波踊りの始まり

徳島城を築城した蜂須賀家政は家臣や町人を招いて祝宴を行い、この祝いの席で家臣たちに好きに踊れとお触れを出したことが阿波踊り発祥の由来と云われます。やがて藍商人たちは収穫や交易の成功を祝う宴で踊り明かしたとされ、阿波踊りが完成したと言われます。

徳島県徳島市の徳島城跡

徳島城跡

寺島川と助任川の三角州に築かれた平城が連立式した平山城で、明治8年(1877年)に徳島城の建造物は取り壊されました。

徳島県徳島市の清玄坊神社

清玄坊神社

城山に祈祷所を設けていた修験者の清玄坊は、築城に際して立退きを拒否して誅殺されました。蜂須賀家には変事が続くようになり、本丸に清玄坊の祟を鎮める社が築かれました。

蜂須賀家政の治世

蜂須賀家政は全国から町人を集めて城下町の整備を進め、藍や塩などの新たな産業を取り入れました。吉野川による肥沃な土壌と温暖な気候は藍の栽培に最適で、藍の生産を奨励して藍づくりは隆盛を極めました。徳島藩は藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立し、阿波25万石、藍50万石とまで言われるほどになりました。

阿波九城制

新たに蜂須賀家が領主となると、これに反発する豪族も多くありました。蜂須賀家政は領地の支配を強化するため、一宮城、撫養城、西条城、川島城、大西城、海部城、牛岐城、脇城、仁宇城の9つの支城を設けました。これらの城は阿波九城と呼ばれましたが、寛永15年(1638年)の一国一城令で廃城となりました。

徳島県徳島市の一宮城跡

一宮城跡

南北朝時代に一宮氏が築城した県内最大規模の山城で、戦国時代には三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台となり、江戸時代は阿波九城の一つとなりました。

阿波徳島藩の成立

豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加した蜂須賀家政は、石田三成の報告により豊臣秀吉の怒りを買い領国蟄居を命じられました。石田三成と関係が悪化した蜂須賀家政は、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで高野山に追放され、蜂須賀家政の嫡男・至鎮が東軍として参戦しました。徳島城は毛利方に占拠されましたが、戦後に蜂須賀至鎮が阿波一国を拝領されました。元和元年(1615年)には大阪の陣の功で淡路国も加増され、阿波・淡路両国を治める四国最大の大名となりました。

徳島県徳島市の旧徳島城表御殿庭園

旧徳島城表御殿庭園

江戸時代初期の武将で茶人の上田宗箇が手掛けた千秋閣庭園とも呼ばる庭園で、枯山水庭と築山泉水庭とを組み合わせた阿波青石を多く使用しています。

藩学の興隆

3代藩主・蜂須賀光隆は儒学者・合田昌因を京都から招き、5代藩主・蜂須賀綱矩は儒学者・増田立軒を登用して藩士の就学を奨励しました。増田立軒は藩主の侍講を務め、6代藩主・蜂須賀宗員までの事蹟を渭水聞見録として纏めました。

徳島県徳島市の鷲の門

鷲の門

3代藩主・蜂須賀光隆の頃に建てられた薬医門で、幕府に鷲の飼養所として届け出たことから名付けられました。廃城令でも唯一残されていましたが徳島大空襲で焼失しました。

徳島県徳島市の袋井用水の水源地

袋井用水の水源地

名東郡島田村庄屋・佐藤吉左衛門(のちに楠藤に改姓)が、旧島田村・庄村・蔵本村の水不足に悩む農民の姿を憂い、元禄12年(1699年)に開削した水路です。

水運と阿波藍による繁栄

享保18年(1733年)に徳島藩は徳島城下の藍場ノ浜(現在の藍場町付近)に特産品である阿波藍の保護と統制を目的とした藍方役所を置き、多くの藍商人が藍倉と呼ばれる倉庫を建てました。倉庫には阿波藍や藩内の特産品が保管され、これらの品を運搬するために多くの船が発着するようになりました。

阿波人形浄瑠璃

人形浄瑠璃は人形芝居と浄瑠璃が融合した芸能で、伴奏の三味線と語りの太夫に合わせて人形が物語を演じる伝統芸能です。藍生産で富を得た豪農や豪商は、娯楽として人形座を招いて人形芝居を楽しむために屋敷の一部を仮設の舞台に活用したと言われています。

徳島県徳島市の阿波十郎兵衛屋敷

阿波十郎兵衛屋敷

江戸時代の庄屋・板東十郎兵衛の屋敷跡で、国の重要無形民俗文化財である阿波人形浄瑠璃の芝居も行われています。

儒学を基盤とした藩政改革

藩政策が商業主義に発展して財政悪化を招くと、10代藩主・蜂須賀重喜は柴野栗山を迎えて儒学を根本として藩政改革を行いました。宝暦6年(1756年)には小規模小作人を切り捨てる政策で藍騒動が起こり、宝暦12年(1762年)には政策に反発した山田織部事件が起こりました。11代藩主・蜂須賀治昭は那波魯堂を招き儒員とし、寛政3年(1791年)に寺島に学問所を設けて士族庶民に入学を許可して学ばせました。

徳島県徳島市の徳島藩主蜂須賀家墓所

徳島藩主蜂須賀家墓所

儒学に熱心な徳島藩10代藩主・蜂須賀重喜が明和3年(1766年)に造営した一族の儒葬墓地で、仏式の興源寺墓所と併用されました。

幕末の動乱

13代藩主・蜂須賀斉裕は、西洋式の軍備導入や沿岸への砲台建設など開明的な藩政改革に取り組みましたが、公武合体を目指して洲本城代の稲田氏をはじめとする家臣団と対立しました。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで蜂須賀斉裕が急死すると、次男の蜂須賀茂韶が家督を継いで新政府側に与しましたが、藩内の混乱のため奥羽への派兵は少数にとどまりました。

庚午事変

洲本城代の稲田家は、戦国時代に蜂須賀正勝(小六)の義兄弟である稲田植元が客分として迎えられ、のちに筆頭家老として独立的な立場にありました。稲田家は鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で本藩よりも活躍しますが、明治政府は本藩の家臣として見なしたため、これを不満として本藩からの独立を訴えました。洲本城下の徳島藩士らは主家への裏切りとして稲田家を襲撃し、稲田家側は17人が犠牲となり徳島藩士らは切腹や島流しに処されました。この事件は廃藩置県後の府県編成に大きな影響を与え、淡路島が徳島県ではなく兵庫県に編入される要因の一つとなりました。