徳島市

徳島市は徳島県東部に位置し、中心の象徴である眉山があり、吉野川をはじめとする大小138の河川が流れて三角州が発達しました。徳島城の城下町として栄え、阿波おどり、人形浄瑠璃、藍染・阿波しじらなど徳島の風土と歴史が育んだ個性的な文化が生まれました。
概要
- 面積
- 191.39km2
- 人口
- 250,688人(2022年2月1日)
- 市の木
- ホルトノキ
- 市の花
- サクラ
- 地図
特集
歴史
天正13年(1585年)に蜂須賀家政が徳島城を築城し、城下町が形成されました。四国三郎と呼ばれる吉野川をはじめ多くの河川が流れて古くから水運が発達し、水運を活かした藍産業を中心に全国有数の商業都市として発展したことから水都とも呼ばれています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代後期には西日本最大級の集落である矢野遺跡ができ、三谷遺跡には縄文時代晩期から弥生時代前期の貝塚や集落跡が残されています。縄文時代後期から晩期には庄・蔵本遺跡に住居跡や城山貝塚などが造営されています。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代後期から古墳時代前期にかけて吉野川流域を中心に忌部氏が勢力を張り、神事に仕えて天皇の祭祀を支え、阿波地域を開拓して麻や穀物の栽培技術を広めました。4世紀後半になると宮谷古墳や渋野丸山古墳のように畿内の影響を受けた前方後円墳が造営されました。

宮谷古墳
3世紀末頃に築かれた徳島市内では最も古いと言われる前方後円墳で、長大な竪穴式石室には刳抜式木棺が安置されていたと考えられています。

渋野丸山古墳
5世紀中期に築造された渋野古墳群にある県下最大の前方後円墳で、墳丘の周囲には盾形の周濠が巡り円筒埴輪や船形埴輪などが出土しました。

矢野の古墳
気延山から東へ派生する尾根上に位置する横穴式石室をもつ円墳で、6世紀後半に築造されてから7世紀中ごろまで追葬されたと考えられています。

丈六寺
白雉元年(650年)に天真正覚尼が創建したとされる尼寺・淨楽寺を前身とし、丈六の観音像が安置されて丈六寺となり、阿波の法隆寺とも称されます。
奈良時代、平安時代
大化元年(645年)の大化の改新で律令体制を整えると、徳島市国府町大御和神社のあたりに阿波国府が置かれました。有力寺院の荘園が置かれいましたが、平安時代に平氏の政権下で地元の豪族が勢力を持つようになりました。

阿波国分寺跡
天平13年(741年)の聖武天皇による国分寺建立の詔により造営された寺院跡で、阿波国の仏教信仰の中核となりました。

入田の瓦窯跡
阿波国分寺跡・阿波国分尼寺跡・石井廃寺跡などで使用された瓦が焼かれ、古墳時代の須恵器を焼成している窯もあります。

阿波遍路道(常楽寺境内)
弘仁6年(815年)に弘法大師が創建した浄楽寺は、真然僧正、祈親法師らが伽藍を建てて室町時代に細川家の祈願所として栄えました。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代に佐々木氏や小笠原氏が守護職として統治しました。
室町時代、安土桃山時代
室町時代に三管領家の細川氏が支配するようになりますが、小笠原氏の庶流である三好氏が支配するようになりました。三好長治が阿波を統治するようになると国人や領民に対して法華宗を強要したため混乱し、天正12年(1584年)にこの機に乗じた長宗我部元親が支配下に置きましたが、羽柴秀吉の四国征伐により蜂須賀家に与えられました。

一宮城跡
南北朝時代に一宮氏が築城した県内最大規模の山城で、戦国時代には三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台となり、江戸時代は阿波九城の一つとなりました。

阿波国分寺庭園
16世紀後半の安土桃山時代に築かれたとされる全国的にも珍しい玉澗流を用いた庭園で、阿波青石で構成される枯池式庭園と築山式枯山庭園です。
江戸時代
天正13年(1585年)に豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政は徳島城を築城して城下町を造りました。吉野川流域を中心に藍作が盛んに行われ、高品質な藍は全国市場で高い評価を受けました。幕末には藍産業の発展で、国内で人口が上位10位に入る城下町となりました。

徳島城跡
寺島川と助任川の三角州に築かれた平城が連立式した平山城で、明治8年(1877年)に徳島城の建造物は取り壊されました。

旧徳島城表御殿庭園
江戸時代初期の武将で茶人の上田宗箇が手掛けた千秋閣庭園とも呼ばる庭園で、枯山水庭と築山泉水庭とを組み合わせた阿波青石を多く使用しています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)に廃藩置県で徳島県となり県庁が設置され、一時期に名東県に改称されましたが、明治13年(1880年)に徳島県が再設置されました。昭和20年(1945年)の空襲で市街地の6割が焦土と化しました。