太宰府市

太宰府市は福岡県の中部に位置し、四王寺山、宝満山、天拝山に囲まれて市域の6割を森林や農耕地が占めています。菅原道真を祀る太宰府天満宮などを有する観光都市で、梅ヶ枝餅をはじめとした梅を使用した菓子などが数多くあります。
概要
- 面積
- 29.60km2
- 人口
- 73,142人(2021年11月1日)
- 市の木
- クスノキ
- 市の花
- ウメ
- 地図
特集
歴史
白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した倭国は、唐と新羅の侵攻を恐れて古代山城を築造して、博多の交易拠点を太宰府市域に移しました。これにより大宰府は交易の拠点として大陸と京の文化が入りますが、京から離れる左遷の地となり、菅原道真などが赴任させられるようなりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
筑紫野地峡帯(二日市低地帯)には脇道遺跡、原遺跡、 宗原遺跡などが確認されています。カヤノ遺跡から縄文時代早期の遺物と古墳時代末から奈良時代にかけての集落跡が見つかりました。弥生時代には国分松本遺跡などから甕棺墓群が見つかります。
古墳時代、飛鳥時代
倭・百済連合軍が白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗すると、唐・新羅連合軍から攻められることを恐れて水城や大野城などが築かれて、博多湾沿岸の拠点が太宰府市域に移されました。

水城跡
築造技術には百済最後の王都である扶余の羅城と同じ技術が採用された古代山城で、水を貯えた濠と土塁とからなるため水城と名付けられました。
奈良時代、平安時代
平氏が勢力を伸ばすと、平清盛は大宰大弐に就任して貿易の富を独占しました。平清盛の後は弟の平頼盛が大宰大弐に就任して平氏の栄華を支える重要な拠点になりました。平氏が衰退して都を追われると大宰府を拠点として再起を図ろうとしましたが、大宰府も攻められて敗走して最終的に壇ノ浦の戦いで滅亡しました。

大宰府政庁跡
大宰府の中核で重要な政務や儀式が行われました。礎石のうえに大きな柱を建て、屋根に瓦が用いられる大陸風の立派な建物があり、菅原道真の漢詩にちなんで都府楼とも呼ばれます。

観世音寺
天平18年(746年)に天智天皇が母の斉明天皇の供養のために創建した寺院で、九州の仏教の中心を担うようになり府の大寺と呼ばれました。
鎌倉時代、南北朝時代
大宰府を治めた武藤資頼は、大宰府の次官である大宰少弐の役職を得て名実ともに九州支配の最高責任者となりました。武藤氏は大宰少弐を世襲して九州を支配して少弐氏と改めました。中国の元軍が日本に攻めてきた蒙古襲来では、少弐景資が日本軍の総大将を務め、元軍に苦戦した日本軍は博多から水城まで退却した記録が残ります。
室町時代、安土桃山時代
鎌倉幕府が滅亡すると、全国の武士が北朝と南朝に分かれて争うようになりました。足利尊氏は畿内の戦に敗れて太宰府で再起して室町幕府を建てますが、その後も懐良親王や今川了俊が太宰府を巡り争いました。次第に政治の中心は大宰府から博多に移り、政治・外交の中心地としての大宰府は役割を終えていき、室町幕府が衰退すると大内氏、大友氏、毛利氏、島津氏などの戦いの場となり荒廃しました。
岩屋城の戦い
薩摩国の島津氏が九州統一を目指す北進を進めると、北部を支配していた大友氏は秀吉に援軍を頼みました。天正14年(1586年)に島津軍5万の大軍は高橋紹運が籠る岩屋城を攻撃しましたが、大きな被害を受けて秀吉の九州討伐で降伏しました。

岩屋城跡
高橋紹運と城兵763人は島津軍の5万の大軍に抵抗して全員討死にしました。被害を受けた島津軍は、北部九州から撤退して豊臣秀吉の九州征伐で降伏しました。
江戸時代
黒田長政を初代藩主とする福岡藩が立藩すると、黒田長政の父で豊臣秀吉の参謀として活躍した黒田如水(官兵衛)が大宰府で隠居生活を送り、焼失した安楽寺天満宮(太宰府天満宮)や観世音寺の建物が再建されました。太宰府は静かな田園風景が広がる農村になりましたが、交通網が発達して庶民が全国各地の名所見物を楽しむようになると、太宰府天満宮には多くの「さいふまいり」の参拝者が訪れました。
明治維新の策源地
幕末に尊王攘夷運動が活発になると、文久3年(1863年)に三条実美など尊王攘夷派の貴族5人(五卿)が失脚して京都から太宰府に送られました。太宰府天満宮に滞在した五卿のもとには西郷隆盛・坂本龍馬・高杉晋作などの志士が集い、明治維新の計画を立てたと伝えられます。
明治時代、大正時代、昭和時代
昭和30年(1955年)に太宰府町と水城村が合併して新たな太宰府町が誕生し、昭和57年(1982年)に太宰府町が太宰府市となりました。