歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!【まいぷら】私のぷらぷら計画(まいぷら)

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

ロンドン

イギリス・ロンドン

ロンドンはイングランド及びイギリスの首都で現代的な大都市です。中世イングランド王国の首都としてテムズ川を利用した海運で繁栄し、大英帝国の時代には世界経済、国際政治の中心的な都市となりました。ロンドン中心部には国会議事堂、ビッグベン、英国君主の戴冠式が行われるウェストミンスター寺院などがあります。

概要

面積
1,572km2
標高
11m
人口
898.2万 (2019年)
地図

特集

イギリス・ロンドンのロンドン塔

ロンドン塔に残る英国王室の深い闇

イングランドを征服したウィリアム1世が建設を始めたロンドン塔は、16世紀から監獄として使用されて多くの身分の高い人が処刑されました。

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イギリス・ロンドンのグリニッジ王立天文台

海洋国家を支えた王立天文台

グリニッジ子午線やグリニッジ標準時の基準点があるグリニッジ王立天文台は、海洋国家イギリスの繁栄を支えました。

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イギリス・ロンドンのバッキンガム宮殿

栄華を極めた英国王室の宮殿

バッキンガム宮殿は、英国王室の王宮である今も衛兵交代式が行われ、ヴィクトリア女王が生まれたケンジントン宮殿はダイアナが生活しました。

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イギリス・ロンドンのウェストミンスター

英国王室と英国議会の関係

英国史のなかで貴重な存在であるウェストミンスター宮殿やウェストミンスター大寺院から見た英国王室と英国議会の関係です。

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歴史

ローマ帝国により創建されたロンディニウムを起源としており、5世紀にローマが撤退するとアングロサクソン諸国が支配しました。9~11世紀にデーン人(ヴァイキング)の侵略を受けたあと、ノルマンディ公によるノルマンコンクエストでノルマン朝が成立しました。産業革命による経済発展や海洋進出により世界の4分の1を支配すると、ロンドンはその首都として国際的に重要な都市になりました。

ローマから七王国の支配

現在のイギリスの地にはケルト人が住んでいました。紀元前1世紀にローマのユリウス・カエサルがガリア遠征を行うとブリテン島は北部を除いてローマ帝国に支配され、ロンドンはロンディニウムと名付けられました。395年にローマ帝国が東西に分かれると、ロンドンは西ローマ帝国に支配されるようになりますが、395年から始まるゲルマン人の大移動により西ローマ帝国は衰退してブリテン島は放棄されました。

410年にローマが撤退してローマのブリテン島支配が終了すると、ゲルマン系の民族であるアングロサクソン人が住み着くようになり、アングロサクソン人は七つの王国を建国してロンドンの周辺はエセックス王国が支配していました。829年には七王国のひとつウェセックス王エグバートがほぼ七王国を統一してイングランドと呼ばれるようになり、ロンドンはその中心都市となりました。

イギリス・ロンドン市街

ロンドン市街

カエサルのガリア遠征でブリテン島は北部を除いてローマ帝国に支配され、ロンドンはロンディニウムと名付けられました。

エグバート

エグバート

七王国の一つウェセックス王で、七王国を統一してイングランド王となり、ロンドンは中心都市となりました。

ヴァイキングの侵略とイングランド王国

北欧のデーン人(ヴァイキング)の侵攻が激しくなりロンドンも占領されました。886年にウェセックス王アルフレッド大王はロンドンを奪回してデーン人を北方沿岸部に追いやると、ロンドンはテムズ川を利用した水運で発達するようになりました。973年にアルフレッド大王のひ孫エドガーがバースで戴冠してアングル人の土地を意味するイングランド王国が建国されました。

11世紀になると再びデーン人の活動が活発となり、イングランド王エゼルレッドはノルマンディ公と結んでデーン人に対抗しようとしました。1002年にイングランド内のデーン人を殺害すると、デンマーク王スヴェンは1013年にイングランドを侵略します。イングランド王家の内紛も重なり1016年にはスヴェンの跡を継いだクヌートがイングランド王に即位してデーン朝を成立させ、北海に面したほぼ全地域を抑える北海帝国の盟主となりました。ロンドンは北海商業圏の一角として繁栄し、12世紀にはハンザ同盟の支店も置かれました。デーン朝はクヌートの死により崩壊して1036年にアングロサクソン人のエドワード懺悔王が国王になります。エドワードは1065年にウェストミンスター大寺院の建造を始め、以降も改装や改築が進められて1700年代半ばにウェストミンスター大寺院は完成しました。

アルフレッド大王

アルフレッド大王

欧のデーン人(ヴァイキング)に占領されたロンドンを取り戻し、孫のエドガーがイングランド王国を建国しました。

イギリス・ロンドンのウェストミンスター

ウェストミンスター

エドワード懺悔王が大寺院の建造を始め、以降も改装や改築が進められて1700年代半ばに完成しました。

ノルマンコンクエスト

エドワード懺悔王の母エマはノルマンディ公国から嫁いでいたため、多くのノルマンディ人がイングランドに入り貴族や聖職者となりアングロサクソン人の貴族たちは不満を持つようになりました。1066年にエドワードが後継者を指名せずに死去するとゴドウィン伯ハロルドが国王を名乗りました。これにエマの甥であるノルマンディ公ギヨーム2世(ウィリアム)は異議を唱え、ギヨーム2世は1066年にイングランドに侵略してヘイスティングスの戦いでハロルドを破り、ノルマンコンクエストを達成してイングランドを征服しました。

ウィリアム1世

ウィリアム1世

ギヨーム2世はウェストミンスター大寺院で戴冠してウィリアム1世となりノルマン朝が成立しました。

イギリス・ロンドンのロンドン塔

ロンドン塔

ウィリアム1世は外敵からの防御と敵対する民衆への威圧のため1078年にロンドン塔を建造しました。

イギリスの海洋進出

1559年に戴冠してイングランド女王に即位したエリザベス1世は、すでに大航海時代を迎えて各地に植民地支配を行うスペインに反発して、フランシス・ドレイクに命じてスペインの財宝を略奪してイングランド王家に献上させました。エリザベス1世は反乱を企てたスコットランド女王メアリ・スチュアートを処刑したことで、1588年に同じくカトリック教徒のスペイン王フェリペ2世はスペイン無敵艦隊をイングランドに派遣してフランスのカレー沖でアルマダの海戦が起こりました。アルマダの海戦で勝利したイングランドは、交易を拡大して1600年に東インド会社が設立されました。世界七つの海にイングランド商船が行き交いイングランドに莫大な利益をもたらしました。

エリザベス1世

エリザベス1世

スペイン無敵艦隊をアルマダの海戦で撃破して海洋進出を果たし、莫大な利益を得て大英帝国の基盤を作りました。

アルマダの海戦

アルマダの海戦

ドレイクの作戦で火をつけた火船をスペイン艦隊に衝突させる奇襲作戦を行い、強風の煽りを受けてスペイン無敵艦隊は壊滅しました。

ピューリタン革命(清教徒革命)

1603年にエリザベス1世が死去してテューダー朝が断絶すると、イングランド・スコットランド・アイルランド国王にジェームズ1世が就任してスチュワート朝が誕生しました。1625年にジェームズ1世の跡を継いだチャールズ1世は、スコットランドに英国国教会への帰依を強要したことで内乱に発展し、その軍費を捻出するために不当な税金で国民を苦しめました。議会は1628年にエドワード・コークの指導により1215年の マグナ=カルタ(大憲章)を拠り所として国王を追い詰めました。チャールズ1世は1642年に軍隊を組織して下院議場に押し入りジョン・ピムら議会の指導者5人の引き渡しを要求しましたが、議会はこれを拒否してピューリタン革命(清教徒革命)に発展しました。クロムウェルは熱心なピューリタンを集めて鉄騎隊を組織して1645年にネーズビーの戦いで国王軍を破り、チャールズ1世は捕らえられて処刑されました。

チャールズ1世

チャールズ1世

内乱を鎮圧する軍費を集めるため、不当な税金で国民を苦しめました。やがて内乱に発展して捕らえられ、1649年に処刑されました。

ネーズビーの戦い

ネーズビーの戦い

クロムウェルが組織した鉄騎隊が国王軍を破り、捕らえられたチャールズ1世は処刑されました。

災害で生まれ変わるロンドン

17世紀になるとロンドンは大きな災害に見舞われました。1665年にはペストの大流行して多くの人が犠牲となり、1666年にはロンドン火災が発生して家屋の85%が焼失しました。ニコラス・バーボンが世界で初めて火災保険を販売し、都市再建の過程で木造建築を禁止するなど近代的な都市として整備が進められました。こうしてイギリスの国力が伸張し、ロンドンは国際政治の上でも重要な都市となりました。

1675年にはイングランド国王チャールズ2世が航海の安全のためにグリニッジ天文台を設立して天文観測を行うようになりました。グリニッジは世界の中心として1884年にはグリニッジ天文台を通る子午線を子午線とすることが国際的に認定されました。グリニッジは海軍の町として1703年に海軍病院が建てられ、のちにグリニッジ王立海軍学校として使用されるようになりました。

イギリス・ロンドンのグリニッジ王立海軍学校

グリニッジ王立海軍学校

グリニッジは海軍の町として1703年に海軍病院が建てられ、のちにグリニッジ王立海軍学校として使用されるようになりました。

イギリス・ロンドンのグリニッジ天文台

グリニッジ天文台

グリニッジは世界の中心として1884年にはグリニッジ天文台を通る子午線を子午線とすることが国際的に認定されました。

黄金時代のヴィクトリア朝

18世紀に起きた産業革命はイギリスを世界の工場へと成長させ、ロンドンはその中心都市として繁栄しました。ヴィクトリア女王は1837年にバッキンガム宮殿に移り住み政務を取り仕切るようになりますが、郊外にスラムが発生して都市問題が深刻となりました。それでもヴィクトリア朝のイギリスの繁栄を象徴するロンドン万国博覧会が1851年に開催され世界に先進的な工業力を誇りました。

商業発展に伴いテムズ川の下流に橋を架けて人が往来できるようにする必要がありました。しかし、ロンドンは河港であるため橋を架けてしまうと船舶の通行の妨げになる問題があり、公募により都市建築家ホーレス・ジョーンズの跳開橋が採用され1886年に工事が着工して1894年にタワーブリッジが開通しました。

イギリス・ロンドンのグリニッジ王立海軍学校

バッキンガム宮殿

ヴィクトリア女王は1837年にバッキンガム宮殿に移り住み政務を取り仕切るようになり、以来英国王室の住まいとなりました。

イギリス・ロンドンのタワーブリッジ

タワーブリッジ

商業の拡大によりテムズ川に設置された跳開橋で、長さは244メートル、左右にあるゴシック様式の主塔の高さは65メートルあります。

近代のロンドン

ロンドンは1930年のロンドン軍縮会議、1933年のロンドン世界通貨経済会議などの国際会議が開かれる国際都市になりました。1940年に起きた第二次世界大戦ではドイツ空軍による激しい空襲(バトル・オブ・ロンドン)で大きな被害を受けましたが、戦後の復興で都市は計画的に見直されて更に繁栄していきました。

イギリス・ロンドンのアビーロード

アビーロード

1962~70年に活動したビートルズは、アビーロードで最後のアルバムジャケットを撮影して解散しました。

イギリス・ロンドンのロンドン・アイ

ロンドン・アイ

ミレニアムプロジェクトとして1999年に開業した当時世界一の高さを誇る135メートルの観覧車です。